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死んでも言えない

「ディオ、今日はいい天気ね、ディオ。昨日までの土砂降りが嘘みたい。久しぶりに一緒にお散歩しましょうか。お父さんが起きてくる前にこっそり、ね?ああもう秋なのね。空が高いわ、とても、とても。ディオ、ほら早く!早く行きましょ!なんなら地平線の向こうまで一緒に逃げちゃおっか?なぁんてね、ふふふ。あら、あら、ねえ見てあの雲、向こうの通りで売ってるパンにそっくり!よし、途中で買っていきましょう。それで、高台に出て朝ごはん!決まりね、ディオ、ディオ?どうしたの、まだ眠かった?ごめんねお母さんばっかりはしゃいじゃって
――え?」

「わあディオ外を見てごらんよ、今日はとってもいい天気だよ。なんて清々しい青空だ!この所は雨が続いていたからなぁ。きっと色んなものを洗い流すために何日も何日も降っていたんだろうね。そうだ、偶には2人で買い物にでも行かないかい。散歩がてらにさ。最近予定が合わなくてすれ違ってばかりだったし。どうせ今日暇だろ?君も。せっかくだからピクニックをするのもいいかもね。あんなに綺麗な空の下で飲む紅茶が美味しくないわけがない!それじゃあぼく急いで準備してくるから、ディオ、君も……ん?どうした君、寝不足かい?
――へ?」


「――あら、あら、ふふふ。なぁんだ、そんなことを気にして難しい顔をしていたの?簡単なことじゃあない。愛しいあなたと一緒に見る景色だからよ。空を美しいと思う理由なんて、それだけで充分だわ」

「――君はそうやって、色んなことに理由をつけたがるんだからなぁ、ふふふ。そうだな、ううんと、そうだ、隣に君がいるからだ。君と見上げた空だからだ。親愛なる君とね。だから今日の空はあんなにも美しい、と思うのは気取りすぎかな、ははは」



片手に日傘。片手には厚手の布。遮光用に特殊加工されているらしいそれはそれなりの重量があり、そんなものを抱えたまま10数階分の階段を登れば腕も辛くなってくるものだ。
やや息を乱しかけている俺の隣を歩く吸血鬼とくれば清々しいまでの手ぶらであり、鼻歌さえも囀りながら軽い歩調でかんかんと階段を上ってゆく。時たまくそ意地の悪い目で俺を見ては「重そうだなぁ承太郎」と笑い交じりの揶揄を飛ばしてくるあたりが、実に性質の悪い男だという他ない。これなら丸無視の方がまだましだ。

「DIO、おい、DIO」
「どうした?とうとう声が上擦り出した承太郎よ」
「うるせーよせめて日傘持てよお前」
「そういえば一体どれだけの時間が経ったのだろうか。貴様とわたしが定期的に顔を突き合わせるようになって」
「話逸らすな、おい」

底の厚いDIOの靴がカン、と階段を蹴りつける。そして俺を置き去りに一段飛ばしで上へ上へと向かってゆく。その後ろ姿はまるで大量の紙袋を男に押し付けウィンドウショッピングに勤しむ女のようだ。いや、女のような可愛げがある男でもないのだが。

「馬鹿馬鹿しい話だな」
「ああ?」
「わたしが実験動物のような生活を送る羽目になってしまったのは貴様のせいで、」
「そりゃあてめーがはしゃぎすぎたからだ」
「わたしの元へと至るために、たったそれだけの為だけに、貴様は苦楽を共にした仲間を失った」

疲労に霞む視界を占領するのはカンカンと靴を鳴らす吸血鬼の、広く薄情な背中である。急所であるうなじを豪奢な金髪が隠している。この男の首を絞めてやりたいという衝動に襲われたのは決して一度や二度のことではなかった。正直に言えば今だって、今こそチャンスだあの首を絞めてしおうと心のどこかで思ってしまっている自分がいる。こちらに向けられた背は酷く無防備なのだ。
それでもその背を日傘の先端で貫こうとしないのは、あの首を後ろから締め上げることをしないのは、疲労が溜まりに溜まった今それを実行するのは酷く億劫であるという事情があったし、何よりもそうすることでこの男と同じ畜生の道に落ちてしまうのが嫌だったからだ。
一度は本気で命を獲るつもりでこの男と対峙して、死闘の果てにこの男を下したこともあった。あの時は俺もこいつも血反吐を吐きながら必死だったのだ。己の命も賭けていた。その果てに掴み取った勝利、つまりこの男の息の根を止めることは決して道義にもとる行為ではないのだとあの時の俺は信じて疑っていなかった。疑う余地すらなかった。だからこそ俺はこいつの身体をバラバラに砕いたのだ。間違ったことをしたとは思っていない、一応は人の形をした生き物であるこの男の命を奪ったことへの後悔もない。結局この男は俺のあずかり知らぬ場所でちゃっかり復活していたのだが。
それでも今は。
今この瞬間俺の目の前にいるこの男は溜息が出るほど無防備であり、敵意も殺意も纏っちゃいない。今に始まったことではないのだ。研究施設に運び込まれ復活をさせられて、以来財団の実験動物として諾々と日々を過ごしているこの男には最早あの日カイロの夜に君臨した帝王の如き輝きなど一欠片も残っちゃいない。
スタンドの力を失ってしまった。
望まぬ居場所から逃げようにも逃げることができない。
非人道的な手に触れられる日々はこれからもずっとずっと続いてゆく。
そんな現況がこいつから生気を奪ってしまっているのだろう。大人しく現状に甘んじるほど殊勝な男ではないし、腹の底では脱出の算段でも立てているのだろうが、ともかく今は、気力だけがあってもどうにもならないのがDIOの現実なのである。
ままならないものだ。そりゃあ、生きることが馬鹿馬鹿しくもなってくるのだろう。

「いつぞやの夏の日だ。目が覚めると厚い硝子の向こうに貴様がいた。ゴーストにでも遭遇したかのように目を見開いて、わたしを見る貴様がいた」
「ゴーストそのものだろう。完全に死んだと思ってたんだぜ、こっちは」
「わたしも今度こそ死んだと思った」

冗談めかした声音でそんなことを言いながらDIOが笑う。依然背中はこちらに向けられっぱなしであり、馬鹿みたいに綺麗な面が意地の悪い表情に歪んでいるのだろう光景を見ることはできなかった。吐息のような笑い声が耳元を通り過ぎてゆくばかりである。

「貴様は確か、わたしと目が合った瞬間にスタンドで硝子を叩き割ったのだ」
「そして周りの研究員が止める間もなくお前の所までダッシュして、胸倉を掴み上げた」
「ん、案外覚えているのだな、承太郎」
「そこまで昔のことでもないだろうが」

たった2年ばかり前にあったことである。時間経過を差っ引いても俺にとっては人生の衝撃の三本指に入る出来事であったので、これからも忘れることはないのだろうという気がしている。

「でも貴様はわたしを殴らなかった」
「お前が死んだ魚みたいな目ぇしてたからだ」
「む?そんなにふぬけた目をしていたのか、わたしは?」
「してた。鏡見なかったのかよ、お前。それにあの時は顔の右半分包帯でぐるぐる巻きになってただろう。どう見ても重病人じゃあねぇか。そんな相手を殴れるか」
「甘い男だなぁ。『わたしに仲間を殺された』という前提の前では、そのようなちっぽけな良心など消し炭となってしまうだろうに」

カン、と一際大きな音が鳴り、DIOの歩みが停止する。思わず俺も足を止め、階段5段分上方に君臨する吸血鬼を仰ぎ見た。
ふわり、と金の髪が翻る。そしてDIOは俺を見る。
数分ぶりに見たDIOの顔はやはりどうしようもなく美しく、それさえもがこの男の業であるのだという気がしている。ゆるりと小首を傾げ、何かを諦めたように目尻を下げた表情は、意地の悪い声の調子に反しやたらめったらに儚げなのだ。

「承太郎」
「ああ」
「わたしが月に数度会う貴様を拒絶しなかったのは、偏にそうすることすら面倒で億劫だっただけなのだ。追い払う手を上げることも、追い返す文句を考えることも、何もかもが煩わしかった。それだけのことだ。決して貴様を受け入れたわけじゃあない」
「逆に「貴様を許し受け入れたからなのだー」なんてことを言われる方が気持ち悪いってなもんだぜ」
「まあ、ふふ、まあそれはそうなのだが」

病的に白い指先が金の髪を掻き上げる。その下から現れた首筋も生々しく白い。弧を描く赤い唇から行き場なく漏れてゆく溜息だけが、怖気が走るほどに生々しい。やめろ。今更、人間ぶった真似をするんじゃあない。

「ただ、ただな、承太郎。貴様がわたしに傾けるどうしようもない憎悪は決して嫌いではなかったし、少しだけ、本当にすこぅしばかりではあるのだが、愛おしくすら思っていたのかもしれない」
「はあ?なんつー酔狂な」
「わたしはまだこの世界で生きているのだなぁ、と。こうもわたしを憎むものがいるうちは」
「訳が分からねーぜ」
「分からないならいい」

分からないが、分かる。一から言葉で説明できるほどの理解があるわけではないが、この男が言わんとしていることは分かるのだ、分かってしまう。つまりこの男にとっての俺というものは、人も建物も無機質極まりない研究所に閉じ込められたDIOにとっては唯一のよすがだったというわけだ。
知らないふりをして階段を上る。DIOの隣に立ち上へと向かって顎をしゃくれば、DIOは不機嫌に眉を寄せ、再びカンカンと段を蹴りつけるように上へ上へと昇ってゆくのだった。

「お前は」

拗ねてすわった声が肩越しに寄越される。ずんずんと階段を駆け登ってゆく背を追いながら、俺は思い布を抱え直した。

「きっと今のわたしなら、簡単に殺せてしまうのだろうに。いいや、そう易々とこの命をくれてやるつもりはないのだが」

階段を昇る。昇る。段飛ばしに駆け登り、DIOの隣に並び立つ。それでもDIOは俺を見ようとしない。なので俺もDIOから目を反らし、行く先である階段の先を見る。もうすぐ屋上だ。重い荷物を抱えた道程も直に終わる。

「今のお前には、生きることの方が辛いだろう」

ただひたすら上を見る。頬にはDIOの視線が突き刺さっている気配があるが、先に目を反らしたのはDIOであるわけなので、わざわざ目を合わせてやる道理はない。

「生きることを辛いなどと思ったことは、ただの一度たりとも、わたしは、わたしは」

鼓膜を打ちつけるDIOの声はか細く、溜息はやはり生々しい。人間ぶった真似をするな。あまりにもみっともなく弱り果てた声だったものだから、そう怒鳴ってやる気もすっかりまるっと削がれてしまう。

「おい。こんなどうでもいい話する体力あるなら傘持てよ、傘。布の方でもいいんだぜ」
「嫌だ。ここまで承太郎が運んできたのだから、責任を持って最後まで運び番の役目をまっとうするべきだ」
「どっちもてめーが使うもんだろうが、アホくせー」
「だってこのDIOは、箸より重いものは持てんのだし」
「つい先月までは4分の1のスイカ両手で持ってがぶがぶ齧ってたじゃあねぇか」
「む、承太郎!とうとう屋上に着いたようだぞ!」
「だからお前、話逸らすな馬鹿」

幅の狭い階段を昇りきった先には少々開けた踊り場が広がっていて、更にその先には古びたドアが鎮座している。先んじてドアの真ん前に辿り着いたDIOががちゃがちゃとドアノブを捻るものの、一向に扉が開く様子はない。

「開かんぞ、承太郎」
「~~この、馬鹿!」
「うおっ!?」

あそこで簡単にドアが開こうものならば良くないことになっていた。ドア一枚隔てた向こうは完全に屋外なのである。屋根もない。壁もない。そして今は真昼なのだ。大雨が上がったばかりで天気もいい。開け放たれたドアから日光が差し込もうものならば、DIOは一瞬にして灰になってしまっただろう。
遅れてやってきた安堵に内心胸を撫で下ろしながら、俺はここまで抱えてきた布をDIOの頭に被せ、日傘を広げた。ついでに一発デコを叩いてやった。そして一応DIOを後ろに下がらせ一呼吸をした後に、施錠されたドアをスタンドの力で押しあける。キイキイと鳴る錆びた音がとことんまでに不快である。

「DIO」
「なんだ」
「やたらと快晴なんだが。本当に大丈夫なのか?お前」
「心配をしているのか承太郎。このわたしを」
「聞かれたことには答えろよ」
「さあな。出てみないと分からない」
「何かあってからじゃあ遅いんだぜ」
「そんなにわたしが心配なのか?」

頭から足元まですっぽりと布を被り、さながらシーツお化けのようになっているDIOはにやにやと笑っている。ああ心配だ、俺はお前の心配をしてやっているのだ、と正直に答えるのはあまりにも癪だ。
大体にして、1週間ぶりに顔を合わせた途端に

『承太郎、空が見たい』

なんてことをねだり俺を荷物持ちとしてここまで連れてきたのはこの男なのである。この先で何があろうとも、すべてはDIOの自己責任になるのだろう。ならばこのような心配などは、どうしようもなく無用の長物なのである。
尚も俺を試すように見据えるDIOを無視し、ドアの外へと踏み出した。

「――、」

絵の具を塗りたくったように青い空はどこまでも遠くまで澄み渡っている。ここへ来る道中にも同じ空を見ていた筈だが、屋上というちょっとばかり空に近い場所にいるからか、はたまた隣にDIOがいるからか、秋空の清々しさに奇妙な寂寥感を刺激される。
どうやら出入り口の近辺は上手い具合に日陰になっているらしい。お前ちょっと出てみろよ。背後のDIOへそう声を掛けてやる前に、いつの間にかDIOが隣に並んでいた。慌てて日傘を差し伸べる。DIOはちらりと横目で俺を見て、鼻で笑う。直接攻撃でこの如何ともしがたい敗北感を訴えるのも虚しい話である。心配だ、と思ってしまったことは事実であるのだから。なのでDIOを視界から追い出し空を見た。
秋の空はどこまでも物悲しい。

「ああ、そうか。晴れの空とは、このような色をしていたのだな」

DIOが妙に感慨深い声でそんなことを呟くものだから、俺の感傷は煽られてゆくばかりである。ふと煙草が吸いたな、と思ったが、煙草もライターもDIOのベッドの脇に置きっぱなしだ。

「これで満足か、お前」
「いいや、ちっとも!」
「!?っ、おい、お前!!」

DIOが俺の日傘を奪い取り、日陰の外へ躍り出る。一瞬呼吸が止まり、一秒を置いて心臓が爆発せんばかりに鼓動を早めた。どくどくどくと、うるさい、うるさい、うるさい。そんな俺を置き去りに、シーツお化けのDIOはずんずんと日向の中を進んでゆく。

「わたしはな承太郎」
「お前、おい」

放っておいてもいい。光の中に溶けてしまえばいい。こんな男など、こんな世紀の悪党である男など。
理性ではそう思うのに、耳の奥ではがんがんと警鐘が鳴り響き、焦燥感ばかりが募ってゆく。DIOを追って日陰の外へ踏み出した。暑い。もう秋だというのに、降り注ぐ日差しは肌を刺すように痛い。

「今日は承太郎が来るのか来ないのかと一喜一憂していたのは何も、貴様の憎悪を愛していたからだけではなくて、」
「そういう話なら後でもできるだろう、お前早く日陰に」
「きっと純粋に、貴様に会いたかった。貴様と下らない話をしたかった。そういう理由もあったのだろう、という気がしている。貴様をからかって遊ぶのが楽しかったのだ。いくらかの溜飲も下がるものだしな」
「DIO!」

肩口を掴み、DIOを強引に振り向かせる。黒い布の中でDIOはにんまりと笑っている。

「案外平気なようだぞ」
「……何かあった後に恨み言言われるのは俺なんだぜ。どうして止めなかっただのなんだの」
「まだ起きてもいない未来のことなど知ったことか。わたしが大丈夫だと言っているのだから――うおあっ!?」
「!!」

身を捩って俺を振り払ったDIOが、日の照りつける手摺に寄りかかる。その途端、ぎい、と一際大袈裟な錆びた音がどこからか鳴り響き、次の瞬間には手摺の一部だった金属が屋上の縁の向こうに落ちてゆく。そして数秒後には、がしゃりとこれまた大げさな音と共に硬い地面に到達した。

「……お前どんな馬鹿力で……もしかすると弱ったふりしてるだけじゃあねぇだろうな?本当はあのとんでもない怪力が戻ってるのか?」
「……手摺がぼろかったのだ。ほら見ろ承太郎、ぐらぐらだ。力が戻っていたらとっくにこんな場所など抜け出している」

随分と古びていたらしい手摺をぐらぐらと揺らしながら、DIOは口の先を尖らせている。どうやら余程驚いてしまったらしい。そしてそんな姿を俺に見られたのが恥ずかしくも悔しくもあるのだろう。やはりこんな吸血鬼の感情の動きを妙に理解できてしまう自分が嫌だったので、気付かないふりをしておくことにする。

「しかし――なんともまあ、古びた建物であることだろう。中身は忌々しいはいてくの山で満ちているというのにな。わたしは、こんなにもちゃちな箱に閉じ込められていたのだな」
「そこから落ちたら出れるぜ。この箱から」
「馬鹿を言うな。下へ辿り着く前に、日に焼かれて死んでしまう」

傾けた傘の隙間から、DIOはぼんやりと空を見つめている。その横顔は汗に濡れていた。唇や指先は痙攣するように震えている。言うほど大丈夫であるわけではない、というのは見るも明らかな状態だった。日傘と布が上手く日差しを遮ってくれてはいるようだが、なんというか根本的に、この男は太陽の下で生きることを許されていないのだ。あまねく世界中に降り注ぐ陽光はこの男だけを拒絶している。この世で最後の吸血鬼。ただこの男1人だけを。

「承太郎。あの空は、貴様の目にはどう映る?」
「はあ?」
「思うままに答えてみろ」
「どうもなにも、ああ、よく晴れたもんだなぁ、と」

感傷的な感情を押し隠し、面白みも何もあったものではない返答を述べてみる。案の定こちらを向いたDIOは期待外れだ、と言わんばかりに眉を寄せ、人の真似をしてやれやれだぜ、と零したのだった。

「かつてだな。ただ晴れているだけの空を美しいのだ、と評した輩がいた。女がひとりに男がひとり」
「それは今ここでしなければならない話なのか?」
「今でないと話せないような気がする」
「そうまでして話したいのか」
「いいから黙って聞けよ、承太郎」

布の端で汗を拭い、DIOは続けた。

「なんでも愛しい者と見上げる空は美しいものだ、そうであって当たり前であるらしいのだ。生まれも育ちも違う男女が同じことを言っていた。わたしにはちっとも理解ができなかった。幼い頃からそういった情緒が欠落していたのだな。わたしにとっての空とは青色や灰色が塗りたくられた天井であり、今にも落ちてきそうに晴れ渡る秋の空などは息苦しくてならなかった。誰を隣に置いて眺めたって美しいと思うことなどできず、狭い世界に閉じ込められているような気分にすらなったものだ」
「そんななのにどうして無理してまで空を見たいだとか言い出したんだ、お前は」
「今なら――美しく見えるような気がしたものだから」
「……それはお前、どうい――!!」

目眩を催さんばかりに眩かったはずの視界が、前触れなく黒一色に塗りつぶされる。それがDIOが頭から被っていた布を押し付けられたからだ、と理解したのは何とか布の端を手繰り寄せ視界を確保してからで、つまりその頃にはとっくにDIOは遮光用の布を脱ぎ捨ててしまっていたのだ。

「承太郎」

日傘の一本だけを差したDIOは、崩れ落ちた手摺の向こうに立っていた。屋上の端から手摺の根元までのほんの数センチ。狭い隙間に足を置き、やたらと穏やかな笑みを湛えて俺を見つめている。

「今のわたしならば、母と見上げる空を愛おしいと思うことができるのだろうか。ジョジョと一緒に今日は何と清々しい日だ!と共に笑い合うことができるのだろうか。もう終わった過去の話だが、彼らが辿り着いたのだろう天国でならば、確かめることができるのだろうか。ふふふ、とんだ笑い話だな。このDIOは過去に思いを馳せるばかりか、少々の後悔さえ催してしまっている」
「母親のことは知らねーが俺のじいさんのじいさんはお前が殺しちまったんだろう、自分でやっといて後悔だ?んな身勝手が許されるわけねぇだろうが、いや、そんなことどうでもいい、お前何やってるんだ、お前、さっさとこっちに、」
「貴様のせいだ」

DIOの纏った薄い服の袖口や裾からは細かな灰が溢れ、日の下で煌めく金髪は吹き抜ける風に融けるようにさらさらと揺れている。麗らかな日差しを真似するように細まった瞳は酷く穏やかで、違うだろう、お前はそういうんじゃあないだろう!そんなことを喚き立ててやりたくなるも舌が縺れて動かない。

人間の真似をしてくれるな。似合わない人間味を覗かせてくれるな。
お前がちゃちな箱と称したこの建物に押し込まれてからのお前というものは消沈をしていたからか、はたまた色々なものを諦めていたからかやたらと無感動で、なのに俺と関わるごとにちょっとずつ怒ってみたり喜んでみたり拗ねてみたり、無防備に色んな感情を覗かせるようになって、そんな姿にカイロで対峙した悪の吸血鬼の面影はなくどう見たってその辺の若者だ、ちょっとわがままな綺麗な男だ、そりゃあ出会いがもっと違った形だったらなんて詮無いことを考えるものだ、お前がただのディオ・ブランド―であった頃に出会えていたらなんてことも思ってしまうものだ、山のようなしがらみを取っ払ったところでのお前という男はどうしようもなく魅力的だったものだから、
だから俺は、俺は、俺は!

「貴様が憎い憎いと思いながらわたしの元へ通い続ける理由と同じだ。今なら綺麗な空を見れるかもしれないとわたしに思わせたのは貴様なのだ。わたしは――承太郎、わたしはな、」
「っ、DIO、」
「わたしは――っ……!?」
「DIO!!!」

ぼろりと静かな音を立て、DIOの片足首が崩れる。比喩ではない。雲の晴れ間から現れた一段と眩い日光が、DIOの足首を溶かしたのだ。
DIOの身体が傾いた。転げる先にクッションはない。屋上の縁での出来事だ。DIOが落ちてしまう。錆びた手摺と同じように。
それでいいはずだ。それでいいはずなのだ。
そんなことを思ったのは一瞬にも満たない時間のみだった。邪魔な布を放り捨て、DIOの手首を掴み取る。ずしり、と片腕に掛かるDIOの体重は辛いものがあったが、それでもちゃんとDIOを摑まえることが出来のだ、と安堵した。
しかしそれもほんの一回瞬きをする間のみだったのだ。

「……!!?」

傘の下から引っ張り出してしまったことによって日光の下に晒された手首は、足首と同じようにぼろりと崩れた。その瞬間に時間の流れがコマ送りに変わる。
さらさらと散らばるDIOの破片。照りつける日差し。青空に吸い込まれてゆくDIO。青空、どこまでも清々しく広がる青空!
丸く瞠られていた赤い瞳をふっと細め、DIOが笑う。そして片手に握られていた日傘が宙を舞う。

「空とはこれほどまでに美しかったのだな、承太郎!」

パーツの欠けたDIOの両腕がばっと広がる。まるで頭上の空を掻き抱くように。
顎を反らせて天を仰ぎ見たDIOは最後にちらりと俺を見た。やはり笑んでいる。これ以上なく美しく、清々しく笑んでいる。

その向こうに広がる空はつまらない感傷を丸ごと吹き飛ばすほどに、ただただ美しかったのだ。









理不尽な話があったものだと思う。

「む、起きたか承太郎」
「……お前それ……俺の見舞いのリンゴじゃあねぇか……」
「わたしの目につく場所に於いておいた貴様が悪い」

いや、本当にどれだけ理不尽であるのだと思う。DIOという男自体が理不尽という言葉の体現であるようなものなのだが、とにかく理不尽だ、理不尽だ、死ぬほど理不尽だこの野郎。
何故俺がこの2日ばかりベッドに縛り付けられているかというと、なんてことない打撲と打ち身の経過を見る為だけのことなのだが、焦るあまり折れた手摺の断面にぶつけてしまった頭はまだじんじんと痛むものだったし、自分の体重より重いものを力任せに引っ張った筋肉はみしみしと軋みを上げている。
結局DIOは灰にはならなかった。死ななかった。俺が土壇場でスタンドの力を駆使して助けてやったからだ。もう2度とあんなに長く時を止めることなどできないのではないかというくらい、あの瞬間の俺はとんでもない馬鹿力を発揮してしまったのだった。
時間を止めて、傾きかけたDIOの身体に布を巻きつけた。そして時間が動くと同時に俺は全力で包み込んだDIOを引っ張り、向こう側からはスタンドに押させた。それから力づくで日陰まで引っ張っていったという次第である。言葉にするとたったこれだけのことなのだが、もう2度とやりたくはない重労働だ。

「承太郎」
「なんだよ」
「もう昼の空はいいから、今度はわたしを月見に連れて行け」
「うるせーよ馬鹿もう2度とてめーの我儘なんか聞いてやる気はねーぜこの馬鹿、馬鹿」
「馬鹿馬鹿言う方が馬鹿であるのだぞ!」
「うるせーっつってんだろ馬鹿」

日光の下に出れないという点では酷く不便なDIOの身体も、寄せ集めて血液を与えれば勝手にくっついてしまうという点に限ってはやたらと便利なものである。そのせいで死に掛けたはずのDIOがぴんぴんしていて、救助活動に当たった俺が疲れ切ってしまっているなんてことになってしまっているのはどこまでも理不尽という他にない。

「承太郎」
「しつこいな」
「承太郎。きっとあの時空が美しく見えてしまったのは、道理に合わないことであるはずなのにな」
「知るか。もう見ることもないだろうし、世の中にはもっと綺麗なもんもあるんだぜ。俺は夜の空の方が好きだ」
「なら月見は決定だな。また近いうちに来るのだぞ。秋が終わってしまう前に」
「覚えていたらな」

ベッドの端に腰かけたDIOがしゃりしゃりとリンゴを齧っている。会話はない。ただDIOがそこにるだけだ。たったそれだけの空間が酷く心地よく、ついさっき目覚めたばかりであるはずなのに再び眠気がやってくる。
俺は仇敵である男の前で寝ようとしているのか――いいやそもそも起き抜けに見たのがこの男の顔であるということは、とっくに俺は仇敵の前にとんでもない無防備を晒してしまったいたのだ。それでもこいつは俺の喉を掻き切るわけでもなく、馬鹿みたいに平和な面でしゃりしゃりとリンゴを――

「……馬鹿馬鹿しい」
「何の話だ」
「月見の算段をしちまってる俺がだよ」
「殊勝な心がけだ」

DIOが笑いながら俺の頭を撫で、リンゴを齧る。無邪気ですらある表情だ。お前は決して、そんな顔をしていい生き物ではないのだろうに。
生温い平穏が胸の中を暖めてゆけばゆくだけ、棘となった感傷が全身に突き刺さり酷く痛い。恐らく俺は一定以上の感情をこの男に抱いてしまっているのだ。それでもこの男には到底禊ぎきれない罪があり業があるのだということを俺は決して忘れちゃいない。
だからこそ、

「また寝るつもりか、承太郎?寝る子は育つというが、それ以上育ってどうするというのだ」
「DIO」
「ん?」
「綺麗な空だったな」
「貴様も大概、女々しい男だな」

愛している、だなんて例え死んでも言えやしない。





葛藤して最後まで踏み切れない承DIOみたいなのも大好きです


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