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上書き禁止 サンプル

 ホリィの勧めで日記をつけてみることにした。きっと大した意味はない行為なのだと思う。今日はたまたま自分がいわゆる記憶喪失であること、先々の記憶の貯蔵も危うい状態であることを覚えているが、昨日のわたしは覚えていなかった。頭の中に留めておきたい記憶の取捨選択ができない。日記をつけようと思っていたことも、どうせその内忘れてしまうに決まっている。
まあ特にしなければならないこともないからな。ホリィの思いつきに付き合ってやるのもやぶさかではない。全くもって馬鹿馬鹿しく平和に堕落した女である。決して嫌いではないが。よく似た女を他にも知っている気がしないでもない。
が、いざこうしてペンを握ってみても、何を書いたものかと思案するばかりでる。このたった十数行を書くまでに実に三十分もの時間を要しているのだが、なんだ、もしかするとわたしはとんでもなく無駄なことをしているのではないのだろうか。
どうせ忘れる。後から日記に記されたことを読んでみても、それはただそういった出来事があったのだと改めて認識をするだけのことであって、わたしの実体験としてこの身と頭に定着するわけではない。
先週わたしは水族館に行ったらしい。たった七日前のことなのに、もう何も覚えていない。水槽の前で撮った写真には、確かにわたしと承太郎が映っていた。なのでああわたしは本当に水族館に行ったのだな、と認識した。ただそれだけだ。写真の中の承太郎がなにやらはしゃいだ面をしていた理由なんて覚えていない。
惜しいと思う。心から。
わたしは承太郎を愛している。承太郎という名前を忘れてしまうことは多々あった。しかしあの愛想のない面をした男を、どうしようもなく愛してるのだということだけは、他の何をどれだけ忘れても見失うことがなかった。そんな男との記憶を忘れたくないと思うのはおかしなことであるのだろうか? 少しでも長く、たくさん、承太郎と記憶を共有したいと思うのは決して、決して、おかしなことでは。
ちっともわたしらしくはない感傷だ。でも今ここにいるわたしは、心の底からそう思ってしまっているのだから仕方がない。写真の中で、承太郎と肩を並べて笑う過去のわたしに少々の嫉妬心さえ抱いてしまっている。それほど好きだ。愛している。こんな馬鹿げた愛情を抱くに至った理由も覚えていないのに、その気持ちだけが残っている。
承太郎。承太郎。また忘れてしまう前に、死ぬほど名前を呼んでおこうと思う。遅いな。まだ帰ってこないのか。承太郎。承太郎。うむ大丈夫だ。わたしはまだ覚えている。


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