スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

back

PM9:14の後悔

ぼやけた視界の中心を陣取っているそれが承太郎の頭だと気付いたのは首根っこを引っ掴まれたネコのような面で奴が振り返ってからで、つまりわたしは別段奴に危害を加えてやろうという気があったわけではなく、ただ寝ぼけ眼で無意識に、目と鼻の先にある黒々とした髪を引いたのだった。

ソファーの上。うつ伏せになって昼寝を。時計の音。時計、秒針。時間が流れている。承太郎が、帰ってきている――ソファーにもたれかかって、わたしの手元にあったはずの本を読んでいる。いや、「読んでいた」。今は首だけで振り返ってわたしを見ていた。呆れたような顔で。

「離せよ。痛ぇぞ」
「本が」
「落ちてたから読んでる」
「どこまで読んだか分からなくなってしまった ではないか」
「落ちてたつってんだろ。そんな顔するくらいなら栞挟んでから寝ろよ、栞」
特別に興味を引かれる本だというわけではなかった。むしろ大したことが書かれていない、つまらない本だったがために眠ってしまったのだ。だから承太郎曰く「そんな顔」、恐らく大変な渋面をしているのは本がどうだという問題からではなく、ただ承太郎の声が寝起きの頭に響いて不愉快だったというだけのことである。
体中の細胞一つ一つに染み込んでゆくような、低くざらりとした声が嫌いだった。特に寝起きにうっかりその声を至近距離で聞いてしまった時などは内心狼狽してしまい、酷い時には一夜が明けてももどかしい思いを持て余す羽目になる。日を追うごとに内心の振れ幅が大きくなってゆくことに気付いた時の絶望、にも似た苛立ちときたらそれはもう、承太郎を殺してしまわなければ気が済まないような。
承太郎は知らない。わたしの内心の氾濫を。いつも胡乱な目でわたしを見るこの男は、きっとわたしに大した興味など持っていないに違いない。それを腹立たしいと感じてしまうことも嫌だった。ただこのような愚にもつかない惑乱を、当の承太郎に知られていないことだけがわたしの最後の砦たる矜持であった。情けない、矜持ではあるが。
「つーか寝るなら部屋に行けって言ってんだろ、何回も。何のためにあんな馬鹿でかいベッドがあると思ってんだ」
取るに足らない一匹の人間であるはずの承太郎に、そうした感情を抱かされていることが死ぬほど不愉快だった。この男はわたしを喜ばせるようなことをしないし言わないし、だというのに逆の感情だけは上手に引っ張り上げてゆくというのだから始末に負えない。
「おい聞いてんのか、」
この男はわたしをどうしたいというのだろう。何度も考えたことではあるが、未だ答えは見つからない。尋ねるのは癪である。
一度、負けた。完膚なきまでに。そこでわたしという存在は終わってしまうはずだった。なのに生き長らえた。いつかの船でのことといい、余程世界は私を生かしたがっているらしい。だとかなんとか、そんな殊勝な感慨を抱く程度には、あの敗北に参らされている。承太郎というただ一匹の男に「わたし」の何かが変えられてしまったかのようで、こちらも大変に癪である。
その、わたしに。何を思ったかこの男は、お前さえよければと、ぶっきらぼうに手を伸ばしたのだ。気に入らなければ財団の世話になればいい、俺としてはお前みたいなのを野放しにしておくよりも目の届く場所に置いておく方が安心だとかなんとか、とにかくまあ、生意気な誘い文句を並び立てたわけである。
わたしはその手を取った。大した理由などはなかった。監視されるにしたって顔も知らない大勢よりは、忌々しくはあれ見知った一人の方がずっと気楽だと、それだけのことだった。
まさかそれだけのことを、いつか後悔する日が来るとも知らずに。わたしはわたしの意志で、承太郎とともにある生活を選んでしまった。
「貴様は外でもそうなのか」
「何の話だ」
「口煩い男は嫌われるぞ」
「俺を口煩くさせ てんのはてめーだろうが」
「わたしだけか。承太郎は、わたしにだけ、」
「……はあ?」
「……なんでもない、忘れろ」
とんでもない自己嫌悪に襲われて枕にしていたクッションに鼻先を埋める。わたしだけに手を伸ばす承太郎が好ましいだなんて、どうにかしている。
後頭部突き刺さる承太郎の視線が忌々しい。見るな、わたしを、見るな。
「……ほんと分かんねー奴だな、てめーは」
暖かな質量に後頭部を擦られる。視線をやらなくても、承太郎がわたしの頭を撫でているのだと分かる。無礼者。舌先までやってきた詰り文句はしかし、分厚いクッションに阻まれ喉の奥まで戻っていった。
「きさまが言うな」
一応の抵抗だけは、承太郎の耳に届いただろうか。時計の秒針がせっせ と働いている音がする。わたしの声は、あの音にかき消されてしまってはいないだろうか。
髪を梳く指先が優しすぎて気持ち悪い。というかこの部屋に満ちた生暖かい空気自体が肌に合わなくて、胸の奥から何か、込み上げてくるものがある。吐き気。そうだ、なにかもなにも、吐き気なのだこんなものは。
――わたしはこのような生温い平穏など、望んではいないのに。この男はわたしに、不要なものばかりを与えようとする。そのたびにわたしが酷く動揺することに、やはりこの男は気付いていない。
「承太郎」
「つまんねー文句なら聞かねぇぞ」
「腹が減った。血を寄越せ」
「…………」
「なんだその目は。わたしに食事をさせん気か。それならそうだな、もう日が落ちているし、適当な人間でも捕まえて」
「ああくそ、くれてやるからそれはやめろ。人様に迷惑かけんじゃねぇぜ」
血袋。ジョースターの血が詰まった男。わたしにとってのこの男。それ以外の何がある。それでいい。
「はやく、承太郎」
途端に腹が減ってきた。
貴様などそうやってわたしを生かし続ければいいのだ、いつまでも。







「――おいDIO、おい」

体が揺れている。決して不愉快な振動ではなかった。凪いだ海に漂っているようで、心地よい。しかし睡眠を打ち切られるには充分な刺激であった。
睡眠。寝ていたのだろうか。よく分からない。全身を包み込む気だるさが、記憶を混濁させている。
「起きてんだろ」
「……承太郎」
「ああ」
柔らかく頬を張られている感触があった。わたしにこのような触れ方をする不届き者など、今のところは1人しか思い当たらない。承太郎。目で認識するより早く、口先は呼び慣れたその名を呟き終えている。
承太郎。そうだ、つい先ほどまでわたしは確か、「承太郎と共にいた」。腹が減ったので血を強請ったのだ。生意気にも奴は渋るものだから、わたしは日に焼けた太い首を引き寄せて――いいや、あれは夢なのか?いつか、ああいうことがあったような気がする。
「お前の息子らしい少年を見つけたと、財団から連絡を受けた。それで久しぶりにお前のことを思い出した、というか、お前について考えてみたというか――とにかく俺はお前に、」
「承太郎」
「……人の話聞けよてめーは」
「後で聞いてやる。その前に食事だ。 腹が減って仕方がない」
「まさか腹減らして目ぇ覚ましたんじゃあねぇだろうな」
やれやれ、とでも言いたげな顔をして、承太郎は身を乗り出した。空腹が原因で目を覚ましたわけではないのだが、実際腹は減っていた。むしろとんでもなく飢えているといってもいい。浮き出た血管の上に指先を押し当てると、承太郎の体が緊張も露に硬くなる。何を今更。問いかける代わりに見つめれば、早くやれと言わんばかりに細められた双眸が瞬いた。なんだか妙に気に食わない。そもそも先ほどから承太郎の態度はどこか他人行儀だ。声は変に押し殺している感じがあるし、意図して視線を合わせないようにしていることは疑いようがない。何故わたしを見ようとしない、何故。何のつもりで貴様は。
「っ、おい 、なにをしている」
「血、を、貰ってやっているのだが」
首筋に食らい付いてやると、承太郎は目に見えて狼狽した。多少気分が良くなって、そのまま血を吸ってやる。やはりジョースターの血はよく馴染む。乾いた砂に吸い込まれる水のように、この男の血はわたしの体に順応する。このまま吸い尽くしてしまおうか。一度くらい、そんな贅沢をしてみたいものだ。
牙の抜けた痕に、ぷくりと血が浮いている。思わず舌を伸ばし舐め取った。承太郎が慌てた様子でわたしを引き剥がしに掛かってくる。そうしてようやくこちら向けられた二対の緑色。あからさまに動揺している。
「指で吸えるだろ、お前」
「貴様がわたしを見ないからだ」
「意味が分からねぇ。つーか耳元 で変な声出すんじゃねぇよ」
最後の方はまるで独り言だった。再びどこぞへと目を逸らし、承太郎は力づくでわたしを引き起こそうとする。大人しく従ってやった。そろそろ起きようと思っていたところだ。
「……案外普通だな」
「何の話だ」
「何のって、1人になりたいとかほざいて逃げてったのはてめーだろうが」
「……はあ?それはいつの、」
「だから、」
「!?」
熱烈な抱擁に前触れはなかった。起き上がりかけた体を強引に引き寄せて、ねじ切らんばかりの勢いで、承太郎がわたしを抱き締めている。目と鼻の先に承太郎の顰め面が。承太郎が――わたしの視界を占領して、わたしで、自分自身の視界を埋めている。頑なに逸らそうとしていた視線はまっすぐにわたしを、わたしだ けを捉えていた。

「――愛してるつったらてめー、一目散に逃げやがっただろうが、DIO」

瞬間、承太郎で一杯になったはずの視界が真っ白に眩んだ。記憶が繋がり理解する。承太郎は、わたしと自分の間に「あったはず」の引力を取り戻しにやってきたのだ。




車内の空気の重々しさといったらなかった。車体を容赦なく打ち付ける土砂降りの雨が居た堪れない雰囲気を助長させている。
あれから承太郎は、「帰るぞ」と言ったきり口を利こうとしない。やはりわたしを見ようとしない。腹立たしく思うが、それはわたしにしても同じことだった。なんというか、話をしたい気持ちもないではないのだが、口を開けばこの空気が重量を増してゆくことなど分かりきっている。 起き抜けに言い合いをするのも億劫だ。
承太郎とのつまらない小競り合いは嫌いでなかったが、今回のこれはつまらないを通り越して下らない。面倒くさくもある。これからも共に生活をしようというのならどこかでぶつかる障害だということは分かっても、わたしから話を振ってやる必然性は感じられなかった。承太郎のせいなのだ。承太郎が馬鹿なことを出だしたものだから、咄嗟にわたしは「わたし」を見失い、そのままこれまでの「わたし」が殺されてしまうかのような、どこまでも馬鹿馬鹿しい恐怖を味わう羽目になった。そしてみっともなくを逃走を。ああ、認めよう。わたしは承太郎から逃げたのだ。あの男がわたしに捧げる感情は、決してわたしにとって「よいもの」ではないと感じたので。
――そういえば、一体あれからどれほどの時間がたったのだろうか。承太郎の見た目はあまり変わっていないようだし、もしかするとほんの数日だけの逃走だったのかもしれない。

「……、」

いや――違う。あれから流れた時間とは、それだけのものではない。少なくとも、承太郎にとっては決して、短くは。

「……どうした。また腹減らしてんのか」
「吸われたいのであれば吸ってやっても構わんが」
「勘弁してくれ」
ぎこちなくはあるが、どうやら普通に話せている。こんな小さなことに安堵を感じてしまう己が憎くて堪らなかった。やはり承太郎のせいだ。承太郎のせいで、わたしは生温い世界や感情に、馴染んでしまいそうになっている。
「着くまでまだしばらくかかる。眠いなら寝とけ 、着いたら起こす」
「わたしが寝ていた方が、気が楽か」
「いつそんなこと言った。そういう意地の悪い物言いは好きじゃねぇってのは何回も言ってるつもりなんだがな」
「知っている。聞き入れてやろうという気がないだけで」
「……で。結局何の用事だったんだ」
「いや――ただ、貴様も老けたものだなと。それだけだ」
正面からひっきりなしにやってくる人工光が、わたしたちの隣を通り過ぎてゆく。そのたびに承太郎の横顔が照らされて、わたしは時間の流れというものを思い知る。地下の暗室で見たときには気付かなかった、確かな衰え。やたらに意志の強さが顕れた顔のあちこちに、それとないさりげなさで刻まれている。
「そりゃあ――10年も経てばな」
「10年」
「10と、あと何年か。数えちゃいないから正確には分からないが。……ただなんつーか、本当に10年も寝やがったんだな、お前」
呆れているような声音は爆発させたい感情を抑えているようでもあり、つまり妙に言い訳染みていて、上滑りする滑稽さを纏っていた。そうした誤魔化しで流れた時間を曖昧にしたくなった承太郎の気持ちは、察せないでもない。

10年。と、少し。

確かに腹も減るはずだ。わたしにしてみれば大した時間ではないが、承太郎の人生に与えられた時間と照らし合わせてみれば決して短いものではない。7分の1。大体その辺り。それだけの時間を、この男は一体どうして過ごしていたのだろう。わたしを欠いた人生を、どうやって。
「……おいDIO、どうした。急に頭抱えやが って」
「なんでもない。強いて言えば貴様のせいだ」
「また俺に擦り付けやがる」
ひどく未練がましいことを思ってしまった。この10年に承太郎を放り捨てたのはわたしだ。
「聞かねーのか、俺のこと」
「聞いて欲しいと言っているようしか聞こえんが」
「ああ――そうかもしれねぇな」
反射的に隣を見ていた。聞き間違いかと思うほど素直な物言いをした承太郎は、しかしいくばか老けたその顔を苦虫を噛み潰したが如くの渋面に歪めてしまっている。愉快ではない話なら、今はあまり聞きたくないのだが。そう助け舟を出してやるより早く、承太郎は絞り出すような声を吐き出した。
「一度、結婚をした」
「一度?ああそうか、失敗したのだな、貴様という愚か者は」
「お前に言われるのは癪だが、愚か者ってのは間違っちゃいねー」
「ふん。貴様などよき夫になれるはずがなければ、よき父にもなれるはずもない。たった2年を過ごしただけのわたしですら知っているぞ」
自分の言葉に妙な誇らしさを覚え、感情のままに承太郎へ笑いかけた。承太郎は尚も苦々しい顔のまま、こちらを見ようともせずにフロント硝子の向こう側を睨みつけている。難しい顔。10年ほど前、最後に見たこの男の顔も、丁度このような感じに強張っていた。と、思えば瞬間的な興奮など引いてゆくもので、わたしもフロント硝子に向き直り、似たような渋面で土砂降りの世界へ視線をやった。
「わたしか。わたしを想って貴様は」
「それは違う」
即答が返ってくる。安堵をした、物凄く。別にこの男の妻子を思いやってのことではない。妻子を投げ打つほどの想いを抱かれるのが嫌だっただけだ。それほどまでに重苦しい想いを望んじゃいない。
程度さえ間違わずにいてくれたのなら、特別視されることは心地よいと感じるし、それがこの忌々しく生意気な男からのものであるとなれば気分も上を向こうというものであるが。しかし承太郎の想いは既に、わたしの許容範囲から逸脱してしまっている。これ以上重くしてどうしようというのだ。
「俺が至らなかった。それだけの話だ」
「そうだろうな。貴様は至らないところが多すぎる」
妙に白けた気分になっている。窓枠に頬杖をつきながらおざなりに答えれば、承太郎が横目でこちらを伺っている気配があった。無視だ、こんな男の視線など。
「てめーに言われんのは死ぬほど腹が立つな」
「で?それで愚かな承太郎は、妻子に逃げられた傷心を癒すために、わたしを起こしに来たと?」
「さっき言ったろうが。てめーの息子が見つかったって連絡が入って、それで思い出したって」
「ああ、そのようなことも言っていたな」
「……薄いリアクションだな。気にならねぇのか」
「人間1人が身を立てることに、父親など必要があるものか」
「ひでぇ親だな」
たった一言の呟きには、軽蔑や自己嫌悪や、なにやら体によくないのであろう、複雑に絡まりあった感情がありありと滲んでいた。人の親になった身である以上、なにか思うことがあるのだろう。しかしそれをぶちまける真似はしないようだ。口を噤んで一層剣呑に、窓の向こうを睨んでいる。大人ぶった横顔だった。胸の奥がざわめいている。押さえつけるように、息を吐いた。
「……俺はな、DIO」
わたしを見ないままに承太郎が呟きを重ねる。
「お前が何度か、外で適当な人間捕まえて血を吸ってくるとか言い出したときには、妙な居心地の悪さを感じたものだが」
突如変わった話題は、わたしが避けようとしているそれに直結しかねないものだった。己の胸中に沸いたのだろう、「我が子」という存在に纏わる感情の鬱憤を晴らすような、投げやりな声色で、承太郎は先へ進もうとしている。
やめろ。呟いた。しかし承太郎の耳には届かない、無視をしている。やめろ。視線で訴える。承太郎を見る。しかし承太郎はわたしを見ない。とことん意地になっている。
「今思えば嫉妬してたんだな、あれは。俺じゃない奴の血を吸うのが許せないとか、まあそんな、下らないことを」
「ああそうか、なら貴様が生きているうちは貴様のしか吸わん、これで満足か」
「DIO」
見計らったように車が止まる。雨の中の信号機が赤い光を発していた。
「愛してる」
承太郎が――もったいつけるように、わたしを見た。もしかすると意地などではなく、この男もこの男でなにかつまらない葛藤を抱えていたが故に、わたしを直視したがらなかったのかもしれない。ここへきてわたしを見たということはつまり、どうあっても我を通す覚悟を決めたということだ。
――あいしている。陳腐なその感情をわたしに塗りこめ、そしてわたしからもその一言を、引きずり出そうと。
暗がりで光る緑色の双眸には、そういった傲慢さが嫌になるほど滲んでいる。わたしの逃走を許した10年前の承太郎にはなかった、堂々とした意思表示だった。

あの情けない逃走に至るまで。生暖かい日常に於いてわたしは、何度も承太郎に「わたしを見ろ」と囁いた。
初めは嫌がらせ、というか構ってみていただけだったものが、必ず返ってくるうっとおし気な視線をいつしか待ち望むようになり、声を掛ける頻度は上がって行った。面倒くさがりながらもわたしに従うこの男に、可愛げを見出していたのかもしれない。
しかし今は。かつてわたしを満足させていたはずの視線に、刺し殺されそうな気分になっている。息苦しかった。雨音に支配された狭い車内で承太郎は、ものも言わずひたすらにわたしを見つめている。

「信号が」

直視しがたい視線から逃げるように顔を背けた先では、信号が色を変えていた。呟くと、倣うように承太郎も前を見た。わたしを一瞥したのちに、そろりと車を発進させてゆく。
そして沈黙。承太郎はわたしの返答を待っている。この男はわたしを逃がすつもりなどないのだ。わたしの息子がどうのと連絡が来たから思い出したと、いやにそっけない口振りでそれを繰り返すくせ、あいしてるのたった一言に込められた執念といったらない。10年前に置き去りにしてしまった恋慕を取り返そうと必死になっている。愚かにもこの男は。

「――寝言だと思って聞き流せ」

口が勝手に動いていた。雨音にせっつかれるように、声が、舌先を滑ってゆく。フロント硝子越しに承太郎と目が合うと、なにやら吐き気のようなもので胸が詰まり――それでもどうしたことか、目を逸らすことができない。

「満たされたのだと思ってしまった」

雨が激しさを増していた。それでも狭い密室は、わたしの声を明瞭に反響させる。雨音に誤魔化しきれない声はきっと、一言も欠けずに承太郎へと届いている。

「大変馬鹿馬鹿しい話だが。貴様が口の腐るような愛を囁いた瞬間に、なにかこう、わたしを焼き殺さんとするような熱が全身を駆け抜けて、とても不愉快だと思うのに、どうしたことか、ああわたしは満たされ たのだなと、瞬間的に。そう思ってしまった。貴様にそのようなことを望んじゃあいないというのにな。貴様を構うのはいい暇つぶしだった。正直に言えば構われるのも嫌いではなかったが、愛だとか、そんないつ消えるかも分からんものを貴様に期待した覚えはない」
ただわたしを見ていればよかった。
絶えずわたしを意識しながら生きてゆけばいいと思った。
力ずくでわたしの道を阻み、要らぬ平穏を与えたのは他でもないこの男なのだ。未だに悔しさは消えていない。だからそういう罰を、科しているつもりでいた。あの日目が合った瞬間に誘ってみたのも本当に、そういった嫌がらせのような戯れとなんら変わりはないはずだった。

もっとわたしだけを見ていればいい。
使い古した動機を胸にわたしはこの男に触れて――ああ、くそ。

「別に――わたしにそういう告白文句を囁いたのは貴様が初めてだというわけではなかったし、体を許した男も貴様だけだというわけではないのだが。何故か、貴様だけが。わたしを」
何故かもなにもそんなもの、承太郎を少なからず想っていたからこそに他ならないのではないか。

あいしている。
その一言に酷く狼狽をした。承太郎がそこまでの執着をわたしに抱いていたことなど知らなかった。

歓喜した。
この男の単純な、それでいて情熱的な執着心が嬉しくてたまらなかった。

その次に困惑した。
わたしを満たした歓喜とは、執着への喜びだけではなかったからだ。他の何か――例えば平和ボケの延長線上にあるような、酷く生温い感情がこのわたしの内から湧いて出てきたことが、信じられなかった。信じたくなかった。

承太郎のたった一言はわたしの体を裂いてしまわんばかりの衝撃であったのに、体が拾い上げる快楽はその直前までの交わりよりもずっと大きなものだったというのだから、わけが分からずにただただわたしは声を上げた。泣いてすらいたのかもしれない。感情が溢れかえって、惰弱な涙がこの目から。
それまでのわたしなら、あんな言葉など適当に受け取ってどこかその辺に捨ててしまえたはずだった。なのにどうしたことか、怒涛のような熱の中でわたしは、同じ気持ちを返したいと思ってしまった。

わたしではない。こんな感情を抱くわたしなどわたしではない。

承太郎のせいだ。この男のせいでわたしは、平穏に馴染むどころではない変化をさせられそうになっていた。
だからもう共に生活などできないと思った。これ以上、わたしはわたしを見失いたくはなかった。そうして逃げた。言葉にしてしまえばたった、これだけのことである。
「……貴様がわざわざ言葉にしなければ、別に。あのまま貴様との生活を続けてやってもよかったというのに」
承太郎があのような言葉を叩きつけなければ、わたしは「わたし」の決定的な綻びに気付かずにいられたのに。そうしたら、10年。承太郎の7分の1。それだけの時間も、共に過ごすことができたのではないか。
――ああ本当に嫌になる。未練がましい。感情についていけず、眠ってやり過ごすことを選んだのは他でもないわたしだったはずだ。

「俺に付いてきたってことは、お前」
不意に、車が停止する。気付けば雨音は消えていた。駐車場に入ったのだ。見知らぬ駐車場。ここは、わたしたちが10年前に生活していた場所ではない。とっくにあの部屋から引き払ってしまったのだろう。

「折り合いは付いたのか。面倒くさいことばかり考えてたみてぇだが」
「……承太郎が、帰るぞと言った。だからついてきてやった。それだけだ」
「そうか」
折り合いなどまったく付けられてはいない。こうしている間にも、わたしは到底わたしのものとは思えない感情の諸々に酷い苛立ちを覚えている。
ただ――目が覚めて、承太郎の顔を見た瞬間。不思議と内心の氾濫は収まって、わたしを追い詰めようとする事柄たちが少しだけ、どうでもよくなってしまったような気分になった。全く蟠りがないとは言えないが、ああして本心を声に出せる程度の落ち着きは取り戻せているのだろう。
そんなにこの男に会えたことが嬉しかったのだろうか。……馬鹿馬鹿しい。

「今更決着は急がねぇ。ただもう、どこにも行くな。何回も迎えに行ってやれるほど暇じゃあねぇんだ、俺は」

車を降りるように促される。久しぶりに踏みしめたアスファルトはいやに冷たく、硬かった。

「――行くぞ、DIO」

なのに背中越しに振り返る承太郎の表情と、呼びかける声の暖かさといったら、

「おい承太郎」
「うおっ」
コートのポケットに突っ込んだ手を強引に引きずり出した。多少バランスを 崩したようだが、屈強な体はたたらの一つも踏もうとしない。どこまでも忌々しい男である。その忌々しさを、わたしはいとしいと、思ってしまっている。
「……何か言えよ」
伝えなければいけないと思った。承太郎という男はこのDIOに、こうまで強く想われているのだということを知っていなければならないと。でなければわたしが立ち行かない。
だから今こそ、知られていないことだけが矜持であるなどど、あんなみっともない強がりなどは捨てるべきなのである。後生大事にここまで持ってきてしまったわたしの惰弱を。

「ずっと貴様の夢を見ていた。10年。眠っている間のことだ」

察せ。わたしをあいしているというのなら察してみせろ。
わたしはあいしているだななんて馬鹿馬鹿しい台詞などは言わんぞ。というか、言えないのだ。元々その素養がない。誰かをあいしたことなどないままに、100年といくらかを過ごしてきた。そんなわたしの、口先だけの言葉にどれだけの価値がある。
だからわたしにそれを言わせたいのであれば、それなりの努力をしろ。
承太郎。
貴様がわたしをもっと、もっと、満たしてしまえばいい。思わずあの言葉が零れ落ちてしまうまで。そうすることを許してやろうと、思っている。
back

since 2013/02/18