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2

翌日、学校が終わってから急いで約束の場所に向かってみれば、彼はちゃんとそこにいた。夕映えに輝く金髪に見惚れていると、ぼくに気が付いたらしい彼はこちらを見て、皮肉気に口の端を持ち上げた。
「本当に来たのか、お前」
「必ず来るって言っただろ。ほら、これで足りるかい?」
古びた建物に、手入れはそれなりの植え込み。柵を隔てたすぐそばに設置されたベンチはすっかり錆びて、ぼろぼろだった。そこにでんと腰かける彼の横に並ぶと、街並みを照らす夕日が良く見えた。いいや、大きな夕日こそが、ぼくらを見下ろしていたのかもしれない。
「ええと――ああ、まあこんなものだろうな。ちょっとばかり惜しいが、本は返すよ。それじゃあな」
ちょっとした感傷に浸るぼくを尻目に、金勘定を終えた彼はさっさと去ってゆこうとする。このベンチからの眺めになど何の感慨も抱いていなのだろう。細い背中は、薄情だ。
「あ――す、すまない!少し、ぼくに時間をくれないか?」
「お前は本当に人を引き留めるのが好きなんだな」
思わず服の裾を引いていた。うんざりとした顔で振り向いた彼は、ぱしりとぼくの手を払いのけ、それでも足を止めてくれたのだった。
「で、なんだい。手短にな」
「えっと、君は読書が好きなんだろう?だったらさ、こういうの、喜んでもらえるかなって」
「これは?」
「書斎から何冊か持ってきたんだ。君がどういう本が好きなのか分からなかったから、ぼくが読んで面白いと思ったものを」
「はは、施しのつもりか?」
恐る恐る差し出した本を、彼は受け取ろうとしなかった。意地悪に口の端を吊り上げて、はっきりとぼくを嘲笑している。彼のそんな様子を見てようやく、ぼくのおせっかいは本当にただのおせっかいでしかないことに気付かされたのだった。
彼の身になって考えてみれば、昨日出会ったばかりの他人に施されるおせっかいなど、苛立ちこそすれ喜んで受け取れるようなものではなかった。彼が自身の現況をどう受け止めているのかなんてことも分からないくせに、勝手に不憫がったぼくこそが傲慢であったのだ。
彼に喜んでもらえるかもしれない、と思っていた自分が恥ずかしくてならず、項垂れた。彼の顔を直視することなどできなかった。
「……そうだね、こんなのは自分勝手な施しだ」
「ほう?」
「君を不憫だと思ったんだ。それでぼくにできることはないかと考えて、思いついたのはこんなことだけだった」
「馬鹿正直な奴」
呆れかえった彼の声色がますますぼくを委縮させてゆく。この場から逃げることも出来ず、ただ項垂れるばかりのぼくはさぞ惨めだったのだろう。後に彼に尋ねたところ、「本当にあの時のお前はみっともなかった」と鼻で笑われたものだ。
しかしこの時の彼には、そうしてぼくを馬鹿にしているような気配はなかった。少し前までの嘲笑も引込めて、とにかく呆れていますと言わんばかりの溜息を吐き、ぼくの隣に腰かけたのだ。
「ぼくは馬鹿が嫌いだ」
「す、すまない」
「別に責めてるわけじゃない。それに……なんというか、本当にぼくは馬鹿な人間というものが嫌いなんだが、偶に、お前みたいなひたすら愚鈍な馬鹿者が羨ましくなる時もあるんだ」
「……羨ましいだって?ぼくが?」
「最近少し疲れてるからこんなことを言ってるんだぞ、普段からそう思ってるわけじゃない。ちょっと前のぼくだったら、もうお前なんか放って自分の家に帰ってる」
横目で隣を窺った。彼は無感動に、沈んでゆく夕日を見つめていた。
「ぼくがもう少し馬鹿な人間だったら、つまらないことで思い悩まなくてもよかっただろうに。制御しきれない感情というものが自分の中にあることなんて、知りたくなかった。お前は知らないだろ?そんなもの」
「ああ――」
彼の言うことを、正直ぼくは半分も理解できていなかった。今になってみれば、あの時彼はああいうことを言っていたのだな、と分かるのだが、当時のぼくはまだ彼の人となりというものを知らない。ただ「疲れている」ということに同情をしたものの、その根の深さなどは知りようがなかったのだ。
だからあの時のぼくの意識の大半を占めていたのは、彼は瞳も綺麗な色をしているんだな、と。ちら、とこちらへ寄越された視線に抱く、どうしようもなく俗っぽい感情だった。
「……おい。お前今ただ返事をしただろう」
「ああ……へ!?い、いやっ、そんなことはないぞ!」
「嘘を言え!ああもう、まったく!何でこんな奴にこんな話をしたんだろうな、ぼくって奴は!まったく!馬鹿の傍にいると本当の馬鹿になってしまう!」
「つ、つまり君はとてつもなく憂鬱なんだって、そういう話なんだろう?」
「はあ!?お前、よくもぼくの感傷をそんなつまらない一言で……ああ、くそっ、間違っちゃいないのが腹が立つ!」
「ぅわっ!?」
だん、と彼が手を付いたベンチの座面が小さく軋む。その勢いで身を乗り出してきた彼は、前日と同じようにぼくの鼻先まで接近し、下から掬い上げるように睨みつけてきたのだった。
「お前の言う通り、ぼくは大変憂鬱だ」
「そ――そうかい。それじゃあ、えっと……ぼくになにか、できることは……?」
「ぼくの元に本を届けるのだ」
厳めしいしかめっ面のまま、彼は続けた。
「ただし、家には持って帰れない。家にあるものを何でも売り捌いてしまう馬鹿者を1匹飼っているのでな。だから、ここでいい。ここで読む。お前はぼくが満足するまで隣にいろ。字を読めなくなる程空が暗くなったら帰してやる」
「ええと……つまり、ぼくが持ってきた本を君が読んで、暗くなってきたらその本をぼくは持って帰って、次の日なったらまた本を持ってここにくればいい、ということかい?」
「ああ、そうだ。別に毎日とは言わないが」
「ならそんな面倒なことをしなくても、ぼくの家に来ればいい。椅子もあるし、飲み物も出してあげられる」
「それは嫌だ」
「どうして?」
「人の家なんか落ち着かない」
にべもなく切り捨てた彼が、さっと距離を取ってゆく。そしてぼくには目もくれずに立ち上がると、再び薄情な背中を見せ、太陽の方向に広がる雑踏へと爪先を踏み出したのだった。
気付いた時にはぼくも立ち上がっていた。その気配を察したのだろう、今度は呼び止める前に彼はこちらを振り向いた。
「リクエストなら特にはないぞ。読めるものなら何でも読むからな。他には何か?」
「今日は読んでいかないのかい?」
「これから仕事だ」
ぼくにとっての非日常は、彼にとっての日常だった。彼はいつだってなんでもない顔をして仕事だ、とか言うものだから、そのたびにぼくの胸は死んでしまうんじゃないかってくらい痛くなる。身勝手な同情だとしても、彼を痛ましく思う気持ちを拭い去ることはできなかったのだ。
「君の名前は?ぼくは君を、なんと呼べばいいんだ?」
ぼくの問いかけを、彼は鼻で笑った。その背後では、爛々と輝く大きな夕日が、今にも街の端へと消えようとしていた。
「君、で充分だろう?」
そして橙の光に融けこむように、薄情な彼は去って行ったのだった。



彼の要求に理不尽を感じないでもなかったが、それ以上にぼくは浮かれていた。少しばかりの波乱と共に知り合った、大人びた下町の少年。彼との間に生まれた他愛もない繋がりは、まるで秘密基地を作り上げたかのような興奮をぼくに与えたのだった。

意地悪なことを辛辣な論調で並び立てる彼は、読書をしている時だけは物静かで、見た目通りの可憐な美少年だった。一度口を開けば台無しになってしまうのだが、いつしかそうした彼の二面性にも妙な愛着を抱いてしまい、彼の危うい魅力を深める要素だとすら感じていた。当の彼にそれを告げてみれば盛大な溜息を吐かれたものだ。
「な、何でそんな顔をするんだい。おかしなことを言ったかな?」
「呆れてるんだよ」
「思ったことを言っただけなのに」
「ほーぉ。じゃあお前が余所で人を誤解させる前に1つ教えておいてやるが、それってぼくを口説いてるようにも聞こえるんだぜ」
「え、ええ、本当に?」
「『君は大変馬鹿正直な愚か者だが、そういう所ってちょっと素敵だと思う。素朴な人柄が引き立って、君がより魅力的に見えるよ』」
「……ああー……ああ、うん、なんとなくわかったよ。君が言うと貶されてるようにしか聞こえないけれど……」
「貶してるんだよ、ばぁか」
そうしてにやり、と笑った彼は、再び本の中の世界へと戻ってゆく。読書に熱中する彼の隣で、ぼくはいつだって手持無沙汰に夕日を見つめるだけだった。それでも、そんな時間を退屈だ、と思ったことはないような気がする。静かで穏やかな時の流れは居心地がよかったし、ぽつぽつと交わす彼との会話も楽しかったのだ。彼は紙面から目を離さないことが殆どだったけれど。
「――ジョジョ!」
「!!なっ、なんだよ、いきなりでかい声を出すなよな」
「あはは、ごめんよ。でもやっと伝えられた」
「何の話だ?」
「ぼくの愛称。みんなそう呼んでくれてる」
つまり読書中の彼は隙だらけだったということで、拒絶をする彼にぼくの名前を伝えるというミッションはあまりに容易に達成できたのだった。愛称ではなく、「ジョナサン・ジョースター」という名を叫んでみてもよかったのだろう。けれどそれは彼がぼくの名前を尋ねてくれる時まで、或いは彼が自らの名前を教えてくれる時までとっておきたいなと、ちょっとした拘りがぼくに愛称を叫ぶに留まらせたのだった。
「……変な名前」
「名前じゃなくて、愛称だよ」
「それでも変だ。なんだそれ、名前からもじったのか?」
「そうだよ。知りたい?」
「!!ニヤニヤするな、知りたくない!」
「君は薄情だなぁ。もう20日近く、ほとんど毎日会ってるっていうのに」
「ぼくがお前の持ってくる本に飽きたら終わる間柄だ。名前なんか必要ない」
「もしかして君、意地になってないかい」
「なってない」
ぶすったれて紙面を睨みつけるその顔は、明らかに意地になっているそれだった。そんな彼の横顔を見ていると、自然に笑みが漏れていた。反射的に飛んできた彼の踵が、ぼくの向う脛にめり込んだ。

どこまでも平坦な時間の連続の中で、ぼくは徐々に彼への好意というものを抱き始めていた。いいや、本格的に彼が特別だとか、好きだとか、そうした強烈な自覚をしたのは彼に駆け落ちをそそのかした時であったのだが、出会ってから40日目に差しかかる辺りには、彼に会い続ける理由が同情だけではないことに気付いてしまっていた。
「あ」
「……ん?どうした?」
「あぁ……いや、なんでも。邪魔してごめん」
「ふぅん?」
ちら、と覗いた彼の項に刻まれた、グロテスクな鬱血痕。彼の仕事の痕跡を見てしまったのは思えばそれが初めてのことで、ぼくは酷く動揺した。あんな痕を残されて可哀想に、と思うより早く、彼の体に汚らしい痕を残した存在というものに、憎しみにも似た激情を抱いてしまったのだ。決して同情からくる感情ではなかった。嫉妬だ。ぼくは名も知らぬ男に嫉妬をしていたのだ。
「……君は以前、人と人が出会うのには理由があるんだとか、そういう話をしてくれたよね」
「ああ――そうだな、なにかの本で読んだ話だ。地上に溢れる人間の数を考えれば、その中で出会う者同士というものにはなにかしら引き合うものがあるのかもしれないなって、そういう話だろう?」
「君は、」
「うん?」
「仕事、で出会う人たちと、君の間にも。そういった繋がりがあると、思っているのか?」
「まあ、そうなんじゃないか?ぼくに生活するための糧を与えるために現れた存在である、という縁があるんだろうな」
「それでいいのかい」
「……今更何を言い出すんだ、お前は?」
「いや……ただ君は、本当にそれでいいのかなと、思って」
いいわけがない。そんなこと、聞かなくても分かったはずだったのに。
「何様のつもりだ、お前」
読み掛けの本を放り出して去ってゆく彼を引き留めることなどできなかった。雑踏へ向かってゆく彼の背はやはり細く、頼りない。その背に誰のものと分からない痕跡が刻まれている光景を思い描いただけで、どうにかなってしまいそうだった。
いいや、本当にどうにかなってしまいそうだったのは、曖昧に続いてきたぼくらの関係だった。他人と呼ぶには長い時間を共に過ごしていたし、友人と呼ぶには、お互いのことを知らなさすぎた。そうした彼のとの関係が、ぼくの不用意な一言で壊れてしまいそうになっていた。その日の夜は眠ることができなかった。学校にいる間も彼の事ばかりを考えてしまっていて、友人たちとどのような会話をしたかなどまったく覚えていない。
そうして。それでも彼との繋がりを絶やしたくなくて、寝不足にふらつきながらも訪れた、いつものベンチには。

「……ちゃんと、昨日の読み掛けの本。持ってきたんだろうな」

いつも通りど真ん中に腰かけてた彼が、腕を組んでふんぞり返っていたのだった。
「あ、ええと――これだっけ?」
「違う、青い表紙の……ああ、これだこれ。寄越せ」
「……隣、座っても?」
「好きにしろ。……というかなんだよお前、その酷い顔。目の周り、黒い絵の具を塗ったみたいになってるぜ」
「その、寝不足で。……君もなんだか、色白を通り越して青白くなっているようだけど」
「……ぼくも、寝不足なんだ」
彼がどんな気持ちで、いつもの場所に来てくれたのかは分からない。正直に言えば、ぼくはちょっとだけうぬぼれたのだ。彼もぼくと同じように、この関係を終わらせたくないんじゃないかって。彼のことだから、読み掛けの本が気になったとか、そういった理由であった可能性も多分にあるけれども。
それでもぼくは、彼がいつものベンチに座ってぼくを待ってくれていたことが、嬉しくてたまらなかった。


一緒に逃げよう。
ぼくが彼にそう唆したのは、それから10日が経つか経たないかといった頃合いだった。

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