スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

back

3

「あれ……?」
その日は何の予定もないからあの本とこの本を持ってこい、みたいな注文を受けたのは2日前のことで、そうした約束をした時には大体、彼は先にベンチに座っているものだった。しかし訪れたそこに彼はおらず、暫く待ってみても姿を現す気配はなかった。
不安にせっつかれるように、ぼくはいつも彼が帰ってゆく雑踏へと足を踏み出した。以前路地裏に差しかかった辺りで人相の悪い大人に絡まれて、情けなくも彼に助けてもらった、ということがあった。それ以来彼には、お前みたいな世間知らずはカモになるだけだ、だからもう1人であんなところに行くな、と言い聞かされていて、ぼくも彼に迷惑を掛けたくはなかったからその言葉を守ってきたものであったけれど、その時ばかりは何もかもが頭から飛んでしまっていたのだ。
彼は――すぐに見つかった。ぼくが下町のカモになる暇もない、あっという間のことだった。屈強な男2人に両脇を固められ、路地裏に押し込まれていたのはまさしく、ぼくの探す金髪の彼だったのだ。
「……!」
最近付き合いが悪い、だとか、いつもより弾んでやる、だとか。合間合間に信じられないくらい下品で卑猥な言葉を挟みながら、男たちは彼の体を弄っていた。彼ははっきりと拒むことなく、困ったような笑顔を張り付けて男たちの手を宥めにかかっていた。目前で繰り広げられた光景は、なにもかもが非日常であった。
だってそれは、ぼくの知っている彼ではなかったのだ。自尊心の塊、といった雰囲気があって、一々物言いが高慢で、けれどそんなところがどうしようもなく魅力的だった彼が、あんな顔をするなんて。
足元が揺らいでいる感覚があった。「あれ」が彼の日常だということを知ってはいたけれど、いざ目の当たりにした光景は、あまりにも、あまりにも――
「……あ、」
――不意に、目が合った。彼の笑顔が硬直した。
「っ!」
ぼくが呼びかけるより早く、彼は自らに覆い被さろうとする男の1人に顔を寄せ、太い首にぶら下がるようにキスをした。まるでぼくの視線から逃れるように――いいやきっと、男たちの注意がぼくに向いてしまわないように。彼は、そういう人だった。でなければ、ああ何度も下町に足を踏み入れるなよと、警告をしてくれたわけがない。
「……、」
出会った日に彼が仕掛けてきたような、掠めるだけのキスとは全く違う。ねっとりと絡みつくようなキスが、視線の先で繰り広げられている。彼の気持ちを思うならぼくはさっさと消えるべきであったのだろうに、足は動いてくれなかった。何も、考えられなかった。彼の唇を蹂躙する男への、燃えるような怒りを自覚したのは、それから1日が経ってからのことだった。
そうこうしている内に、男たちに引きずられるよう、彼は路地裏の奥へと消えた。最後に一度、いつものベンチのある方向へ顎をしゃくって見せた彼は厳しくも毅然とした、ぼくのよく知る彼の顔をしていた。泣きそうになりながらぼくはベンチへと向かい――古びたそこに腰を下ろすと同時に、彼をここから連れ出そう、と決心をしたのである。



「――お前はぼくに、それでいいのか、と聞いたな」
月が中天に現れたような頃合いに、彼はいつもの場所へと現れた。酷く憔悴している。疲労に翳った美貌が、何故かぼくの方が泣いてしまいそうになるくらい痛々しかった。
「いいわけがないだろう。いいわけが、あるものか」
ぼくの隣に腰かけた彼は、靴を脱がずにベンチの上に足を上げた。三角に膝を折り、その合間に額を埋める。さら、と流れてゆく金髪がベールのように、彼の顔を隠してしまっていた。
「……ちょっと前から、思っていたことがある。今だけしかこんなことを言わないから、ちゃんと聞いてろよ、お前。お前にあんな現場を見られたせいで、とても酷い気分になってるんだ。理由は聞くな。自分でも分からない」
そっと、彼の頭が傾く。膝頭に片頬を乗せた彼は、はらりと落ちた前髪を気だるげに掻き上げた。
青い双眸には、彼なりの決心が滲んでいる、ように見えた。どこか弱弱しい。なのでぼくがしっかりしなければと、気合を入れて頷いた。ぼくまでが沈んでしまってはいけないのだ。でなければ、誰が彼をこの街から引き上げてくれるというんだ?
「ぼくは――大人になった自分というものを、想像できないんだ。というかきっとぼくはまだ、何者にもなれていない。ぼくにだって名前はあるけれど、名付けてくれたはずの父親は、ぼくにたかって生きている。ぼくはあのろくでもない父親を生かすためだけの存在でしかないのではと、そう思えて仕方がない」
「そんな、」
「ぼくは!……ぼくは、そんなの嫌だ。それだけで終わってしまう人生なんてカスだ、生まれてきた意味がない!……野望や、上昇志向的なものくらい、ぼくにもあるさ。その為に勉強だって、している。けれど――」
月光を浴びる彼の白皙。憂鬱に沈む彼は、これまでに見たどの瞬間の彼よりも美しかった。けれど、そんな美質など必要ないのだ。ぼくは、太陽の下で皮肉気に笑う彼こそが愛おしい。

「ぼくは誰にもなれないまま消費されるばかりで、そのままいつか、死んでしまうんじゃあないかって。なんとなく、そんな気がしてる」

大丈夫だ、そんな憂鬱など現実にはさせない。

「……なんだよ、この手」
「一緒に逃げよう」
「馬鹿を言うな」
「ぼくは馬鹿だから、先の事なんか知らない。けれどこの街に君の幸せがないってことくらいは、分かるんだ。だから――なあ、君」
「……、」

「一緒に、逃げよう」




「――え?」
「え、え?え、っていや……ええ!?」
「ええー……いやだって……その、お前、本当に本気であんなことを言ってたのか?」
「むしろどこに冗談だって思う余地があったんだ!?」

翌日である。夕焼けの中、1日ぶりに顔を合わせた彼はすっかり元の状態に戻っているようだった。ガラス細工のような儚さは既になく、ベンチでふんぞり返る様子はふてぶてしくすらあった。ぼくは大変安堵した。ああよかったなと、それこそ本当に泣いてしまいそうになったくらい。
そんなぼくを見た彼は、ふっと笑いながら「情けない顔をするなよ」と、やっぱり普段の彼のものである冷たい声音で意地悪く揶揄したのだった。

そんなこんなで隣に座り、今日も今日とて赤い夕陽と対面する。彼との日常が、戻ってきたのであった。
しかし喜んでばかりはいられなかった。一緒に逃げようと。その言葉を口だけで終わらせないために、ぼくは地図を取り出した。まず、ぼくらの行先を定めておく必要があった。心は弾んでいた。見知らぬ土地への旅を思い浮かべただけでも冒険心が擽られるというのに、この逃避行には隣に彼がいるのである。浮かれずにはいられなかった。
そうして「さあ、どこに行こうか」と、満面の笑みと共に問いかけたぼくを、彼は

「――え?」

と。頓狂な声と共に、真ん丸になった目で見返してきたのだった。

「だってどう考えても、お前は未知への冒険に浮かれているだけじゃないか。ああ、その、ぼくのことを想ってくれる気持ちに嘘があるとは思ってない。でもお前の言うことは、あまりに現実味がないだろう」
「それは、そうかもしれないけど……」
「あのな、ジョジョ。ぼくをこの街から引き上げたいってことなら、逃げるよりもまだお前の家に住まわせる、って方が現実的だとは思わないか?」
「あ……確かに」
むしろ、その発想こそが先に来てもおかしくはないものだった。
「でもお前は頭からぼくと逃げようとした。そこには多分、ぼくを助けたいって気持ちとはまた別に、冒険への憧れがあったんだろう。……お前の気持ちは、正直嬉しくないこともなかった。でもぼくは、お前の冒険に付き合うつもりはない。今の生活よりもずっと面倒くさい困難が待ち受けてることなんて、やってみる前から分かるからだ」
言われてみれば、確かにそうなのかもしれなかった。最初に抱いていた彼への感情が、低俗な好奇心や、秘密基地への興奮だったように。彼に唆した逃避行も、そんな感情たちの延長線でしかなかったのかもしれない。

一緒に逃げよう。

そう口にした瞬間には、上手くいかないわけがないと信じていた。けれど諭すようにぼくに語りかける彼の、なんだかいつもより優しげな顔を見ていると、ぼくはとんでもない無謀を彼に強いようとしていたのでは、としか思えなくなってしまったのだった。

「その、お前の気持ちを、無碍にしてるわけじゃないからな。ぼくは貰えるものは貰っておく主義なんだ。だからお前の気持ちは、その……」
「……その、なんだい?」
「――な、なんでもない」
ほんのり頬を赤くした彼は、ふいとぼくから顔を反らし、その勢いで立ち上がる。
そしてぼんやりと座るぼくの真ん前で仁王立ちになり、夕日を背に、じっとぼくを見つめていた。何か言いたいことがあるのだろう。でも彼はきゅっと赤い唇を引き締めて、睨むようにぼくを見るだけだった。
居たたまれずに、先に口を開いたのはぼくの方だった。
「……君さえよければ、家に来ないかい?父に聞いてみなければならないけど、きっと賛成してくれる。家はぼくと父と、使用人が数人しか住んでいないんだ。だから君が家族になってくれると、賑やかになるだろうし。とても、嬉しいなって」
「遠慮しておく。ぼくに家族なんてものは必要ない。それに……お前とは、そういう仲にはなりたくない」
「……そっか」
どんな気持ちでそう言ったのかは分からなかったが、その言葉には彼なりの親愛が込められていたのだと思う。ふっと伏せられた長い睫毛が、切なげに揺れていた。
「ぼくになにか、できることは?」
「ない。お前はただ馬鹿であってくれればそれでいい。お前みたいな馬鹿がこの世にいることを知っていれば、自分が上等な人間だと思っていられるからな」
「はは、酷いな」
「……ジョジョ」
「うん……なんだい」
躊躇いがちにぼくを呼ぶ声。そっと差し出された、荒れた指先。両手でそれを包み込むと、彼は溜息をつき、けれど次の瞬間にはこれまで見たことのないような穏やかな顔で、笑っていた。
「1つ、決心がついたことがある。なんというか、それをすることで良心が痛む、とかそういうことじゃあなくて、そうしてしまうことでぼくの人生が閉ざされてしまうんじゃないかって、躊躇っていたことがあったんだ。でも昨日、お前と別れた後にちょっとしたきっかけがあって――漸く、実行に踏み切れそうだ」
「それは、危ないことなのかい?聞いた感じ、不穏な気配がするけれど……」

「いや――いいや。大したことでは、ないさ」

彼の笑顔も声色も、ひたすらに穏やかだった。彼の言う「それ」を実行することでいつも彼がこんな顔をしていられるようになるなら、それは素晴らしいことだと思う。
けれど、何故だろう。なんだか背中が、とても寒い。

「それでだな。だからってわけでもないんだが、暫くお前とは会えなくなる」
「ええ!?そんな、急に!?」
「仕方ないだろ、急に決心がついたんだから。父の体調が、ちょっと心配なんだ。見ていてやりたくて」
「……え?でも……君は昨日、お父さんのことを……」
「あんなでも親は親だからな」
俯く彼は尚も笑んでいる。消費されてゆくことが嫌なのだと――怖い、のだと。そう嘆いた儚さなど微塵も存在しない。むしろ前を見て、どこまでも進んでゆけるのだろう力強ささえも滲んでいる。
「……なにかあったら、なんだっていい、ぼくを頼ってくれよ。君の力になれることなら、なんだってする」
「大丈夫だ。ぼくは1人で立っていられる」
「それでもだ」
「……ああ、分かった。じゃあ何かあったら、骨までしゃぶってやるからな。自分の言ったこと、忘れるんじゃあないぞ」
「忘れるわけ、ないだろ」
どうしようもない不安があった。あの雑踏に消えたが最後、彼はとんでもなく遠い場所へ行ってしまうんじゃないか、もう2度と会うことはできないんじゃないだろうかって、嫌なことばかりを考えてしまって、彼の手を離すことができなかった。
けれど彼が空いた方の手で、宥めるようにぼくの手首を撫でたので――未練を残しながらも、そっと彼の手を解放する。
無残に荒れてしまった白い指先。次に会う時にはこの指先が、今よりも綺麗になっていればいいと思う。そう願わずにはいられなかった。
「本当に、会えなくなってしまうのかい?暇を見つけて会うことも、無理なのかな」
「未練がましい奴だなぁ」
彼の唇は弧を描いていた。きっとぼくの不安や寂しさになど、気付いてはいなかったのだろう。もしかすると彼のことだから、気付いていながら無視をしていたのかもしれない。
たまらない気分になって、ぼくは彼に、キスを仕掛けた。自分から仕掛けるキスというものは初めてではあったが、何故だかやり方を知っていたかのように自然と、彼の唇に触れることができた。触れるだけの、ほんの一瞬だけのキスである。なのに彼に触れた口先は、じんじんと痺れるように熱かった。
「へたくそ」
彼は笑って、背を向けた。やはりどこまでも薄情だ。いつだって先に背を見せるのは彼なのだ。
「なあ――なあ、君!せめて名前を、教えてくれよ。どこかで会うことがあれば、呼びかけられるように!」
今生の別れなどではない。なのに不安で仕方がなかった。底冷えのするような不安が背筋に張り付いてしまっている。
名前。今こそ彼の名前を聞いておきたかった。今ここにいる彼の、50日あまりをこのベンチで共に過ごした、彼の名を。

「お前の声で呼ばれたら、名前じゃなくても振り返る自身がある。だから名前なんて、必要ない」

首だけでこちらを振り返った彼は、やはり自らの名前を教えてはくれないのだった。



そんなあまりにもあっけない別れからどれだけの時間が経ったのだろう。まだ1年もたっていないはずだけれど、彼との日々はとんでもなく昔の出来事だったような気もする。
あれから何度もあの場所へ足を運んだが、結局1度たりとも、彼と会うことはできなかった。落ち葉やゴミの積もったベンチを見る度に、言いようのない寂しさが胸の内を埋め尽くすのだ。
彼は、やりたかったことというものを成し遂げられたのだろうか。
彼はまだ、どこかの誰かに浪費されながら、自らの父を養っているのだろうか。
彼が幸せならそれでいいけれど、どうしても幸せである彼、というものを想像することができないので、どうすることもできない悩みは尽きないのだった。
――幸の薄い美少年。彼は小説も好んで読んでいたが、彼自身もなんだか、物語の登場人物であってもおかしくはない人だったような気がする。

「ジョジョ、そろそろ馬車が来る頃合いだよ。出迎えに立つのではなかったのかい」
「あ――忘れていた!」

背後から父の柔らかな声が飛んでくる。振り返ってみれば、微笑ましげにぼくを見つめる父が立っていた。
少しばかりの恥ずかしさと共に、その横をすり抜ける。今日はこの家に家族が増えるのだ。その出迎えを買って出たのはぼくだというのに、金髪の彼を想っているうちにすっかり忘れてしまっていたのだった。


階段を、ホールを駆け抜けて、清々しく広がる青空の下へ飛び出した。
馬の蹄と車輪の音は決して遠くはなかった。もうそこまできているのだろう。

ぼくの兄弟が、やってきたのだ。
back

since 2013/02/18