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果てなどがあるものか!

無題
20××年01月××日 20:32
―――――――
さけとつまみ


「……あ、もしもし?なにこの人をなめたメール……いや君ってそういう奴だけど……
ていうかなに、寝起き?おーい、おぉい。うりーとか言われても分かるわけないだろ、承太郎じゃああるまいし。普通起き抜けにあんなメールするかなぁ……
承太郎は?え、なんだって、ちょっと聞こえにくい、もっとはっきり。……え?ふぅん、そうなんだ。あーあーもーうりうりうるさよー。
分かった、分かったから。今から出るから、ちょっと待ってて。は?30秒は無理だ。急いでも30分。
……うるさいなー、別にぼくは、行きたくて行ってやるんじゃあないんだぞ。本当は全く行きたくなんてない、むしろこたつから出たくもない。でもこのまま家に籠ってると、君が襲撃を掛けてきそうで嫌だから、仕方なくぼくの方から行ってあげるんだ。君全力で人の部屋散らかしてくから極力入れたくないんだよ……
あ、ぼくが着くまでにちゃんとした服を着といてくれよ。どうせ何も着てないんだろ?ホント、軽くトラウマなんだからな。ほら、エジプトにいた時に一回、君の館に招かれたことがあっただろう。その時の君すごい格好してたじゃあないか。青春の衝撃だね。過ぎたエロスは暴力でしかないってことを、君は自覚しておくべきなんだ。まあ承太郎と一緒になってから丸くなったとは思うけど。
じゃあそろそろ出るから。電話切るよ。あーあー、新年早々何をしてるんだろうなぁ……」


「遅い」
「せめて一言くらい労ってくれよ。あ、ちょっと失礼――うぇっ」
「貴様も飽きん奴だなぁ。いい加減慣れてもよかろうに。いつまでも人の顔を見た瞬間にえずきおって」
「し、仕方ないだろ、なんかもう10代の頃の君とのあれこれはことごとくがトラウマなんだよ。お腹に穴まであけられるし」
「ちょっと声を掛けてみただけで盛大に吐き散らされたわたしの気持ちというものも、貴様は一度考えてみるべきなのだ」
コンビニを経由してきっかり30分。
真冬の寒波に耐えながら辿り着いた空条家リビングは、外とまったく変わらない張りつめた冷気の充満する、さながら冷蔵庫と化していた。慌ててヒーターの元まで走り、電源を入れること1秒後。モニターに表示された「室内温度 2℃」の表示はおおいにぼくを脱力させ、ソファーの上に泥のように横たわる吸血鬼へのささやかな憎しみを1メモリ分増大させたのだった。
「それ、そのファンヒーターとかいうの。うるさいから嫌いなのだが」
「ぼくに凍えて死ねと言うのか!まったく、一々出迎えなんかいらないけれど、せめて部屋を暖めておいてくれるとかさぁ、それくらいして然るべきことなんじゃあないのかい、この人でなし」
「人間などとうにやめたー」
「そういうことを言ってるんじゃあない!まったく!君って奴は全くどこまでも!」
「それよりも花京院、さっさとわたしに献上物を寄越すのだ。あれはあるか、あれ、なんかイカの、ええと、するめ?そう、スルメだっ!早くわたしにあのこりこりの弾力を寄越すのだー!」
「くらえ!」
「うぬぅっ!何をする無礼者!食べ物を投げてはいけないと教わらなかったのか!」
「君こそものの頼み方というものを、今からでも教わってくるべきだ!」
みっちりスルメの詰まったボトルを投げつけてみれば、さっきまでの怠惰な寝姿が嘘のような機敏さでDIOが起き上がる。頭の端っこにでも当たれば御の字、程度の気持ちで投げてみたものではあったのだが、寸分の狂いなく顔の前でキャッチをされてしまえばどうにもおもしろくない。
「というか貴様、いつまでそんなところに突っ立っているつもりだ。落ち着かん。せめて腰を下ろせ」
「こんなに冷えたフローリングに腰を下ろす勇気はない。ていうかこれ、なんか出力弱くないか?前に立っててもいまいち暖かくないんだけれど」
「知らん。わたしには必要のないものだ」
「あー、まさかこれ、まさか」
さっと脳裏を過って行った嫌な予感を裏付けるべく、灯油タンクを持ち上げてみる。案の定、軽い。ものすごーく軽い。何故給油の警告が出ていなかったのかが分からないレベルの軽さである。よく見ればこのヒーター、なんだかぼろぼろに痛んでいるようだし、そこら辺のセンサーが死んでしまっているのだろうか。
「おいDIO、灯油切れてるよ、これ」
「なら入れてくればよかろう。玄関」
「……家主がやるものじゃないか?こういうのって」
「家主は承太郎だ。わたしではない」
「あーもー、なんで年明け早々、人の家の灯油を入れなきゃあならないんだ!?」
タンクを抱えて玄関へ向かう。道すがらDIOをなんとか視線で刺し殺せないかと試みてはみたものの、つまらなそうな顔でスルメを齧るDIOは微動だにしないのだった。

――本当に、どうしてぼくが、こんな目に!

承太郎はかけがえのない大切な友人ではあるが、最終的に選んだ人生の伴侶がDIOだという点だけは、未だに頭がいかれているとしか思えなかった。きっとぼく以上にこの吸血鬼に振り回されてきたのだろうに、それでも共に暮らしたいと思えるだけの愛情を、果たしてどうすればこの生き物に抱けるというのだろう。ぼくなんてまだDIOの顔を見るだけで、諸々のトラウマと共に吐き気を催してしまうっていうのに。

「……はー……」
吐く息は白かった。いい加減この冷気に体も麻痺をしてきたようで、手足の末端の感覚がない。それでもなんとか満杯になったタンクを持ち上げて、冷蔵庫もといリビングへと帰還する。DIOは出て行った時と同じ姿勢のまま、ひたすらにスルメを齧っていた。
「そんなにおいしい?それ」
「味がどうというより、歯ごたえが中々。うむ、なにやら血管を齧っているようで」
「もういい、もういいです。よいしょっと。…………はー、やっとついた。早く暖まらないかなぁ」
「そんなに大袈裟に寒がるようなものなのか?承太郎はそこまで寒がる様子を見せたことはないのだが」
「彼はいろいろ規格外じゃあないか……」
こんなに寒い部屋であっても、承太郎の指先はかじかむことがないんじゃあないかと思う。なんていうか、なんとなく。偏見でしかないけれど。
「む。そういえばキッチンの椅子に、あれ、なんだあれ、ああそう『半纏』。承太郎がいつも着ている羽織があったはずだが」
「キッチン?……ああ、あれ?」
ヒーターの前に足の裏を張り付けたまま背伸びをし、キッチンへと目を向ける。すると確かに、木製の椅子の背には渋い柄の半纏が引っ掛かっているようだった。あの半纏を着た承太郎というものを想像してみると、なんだかちょっと微笑ましい気分になる。似合いそうなのがまたね。
「スルメの時といい、君なんか妙に言葉が引っ掛かってるみたいだけれど。そろそろ年なのかい?」
「日本語がややこしいのが悪いのだ。例えば『はし』という2文字にいくつの意味を付随させれば気が済むのだ日本人は、まったく、無駄にややこしい。まあそんなことはどうでもいい、さっさとその半纏をわたしの元へ持ってこい」
「え?……え?なに、君が着るのか?」
「それがなにか?」
「寒がるぼくにちょっとした気遣いをしてくれた、って流れじゃあなかったのかい?」
「え?いや逆に、何故わたしが貴様に気を回す必要があるというのだ?」
「くらえDIOォォ!直線3m缶ビールをーーッ!!」
「無駄無駄無駄ァァ!」
振りかぶって投げた缶ビールは、確かにDIOの眉間へ狙いを付けた筈だった。しかしやはり超常的な反射神経を持つ吸血鬼は難なくそれを受け止めて、にやにやと勝ち誇った笑顔でぼくを見る。赤い唇から覗く鋭い牙が、無性にやたらと憎かった。
「短気を起こすなよ、花京院。さ、早くその羽織をこちらまで持ってくるのだ」
「どうしてこれが君に必用になるんだ?寒さには強いんだろ」
「承太郎を身近に感じたいという理由では駄目なのか」
「はぁ?」
「よくよく考えれば、あの男が出発してから一週間がたつ。その間半纏はずっと椅子の上に置きっぱなしで、わたしは奴の顔を見ていない」
「……え、なに?つまり君、寂しいって?」
「違う。恋しいのだ」
やたらと男らしくそう言い放った吸血鬼は、さっさとしろ、と重ねてぼくに催促する。思わず、言われたとおりに手渡した。ご苦労の一言もなく受け取ったDIOは、薄いセーターの上に黙々と半纏を着こんでゆく。
如何にもな金髪外国人のDIOと、和柄の半纏。絶望的に似合っていない。いっそ指を差して笑ってやりたい所であるが、真顔で彼が言い放った「恋しい」の一言と、心なしか嬉しそうに袖に鼻先を埋める姿にどうにも毒を抜かれた心地になって、開きかけた口からはただ溜息が漏れるのみである。
「どうした花京院。みっともない面になっているぞ。さながらゲロでも踏んづけたかのような」
「もっと綺麗な例え方はできなかったのかい」

――君、君よ、一体どうしたんだ、いつの間にそんな殊勝なことを言う奴になってしまったんだ?

思わずそう問いかけたくなった衝動を、寸でのところで飲み込んだ。昔はぶつぶつと承太郎の不満ばかりを呟いていたDIOに、果たしてどのような心境の変化があったのだろう。興味がないではない、というかむしろ興味津々ではあるのだが、それ以上にそんな恐ろしいことを知りたくはないという思いもある。
「ふふふ、わたしもしおらしくなったものだろう」
「……あ、自分で突っ込んじゃうんだ?」
「なに、せっかく承太郎がいないので少しばかり正直に心境を言葉にしてみたわけではあるが、中々に気恥ずかしい上馬鹿馬鹿しい。あーあ、ふふふ、言わなければよかった」
「その割には楽しそうだけれど」
「笑うしかない。そういう気分だ。このDIOの口からなぁ、よくもまあ、あんな言葉が出たものよ」
「……ほんと、変わったよなぁ、君も」
「承太郎のせいだ」
そう言いながら缶ビールのプルタブを起こしたDIOは、尚もニヤニヤと笑っていた。見慣れた表情である。しかしほんのりと色付いているように見える滑らかな頬の、幻のような可憐さだけは、10年と少しの付き合いの中で初めて目にするものだった。
「まあ、あれだね。幸せそうで、なにより」
「ふん」
ふい、と赤い目が逸れてゆく。まったく、そんなに恥ずかしがるくらいならほんと、慣れないことなんて言わなきゃあよかったのに。
「そうだ、承太郎といえばさ。今アメリカだっけ?大変だね、新年から」
「大変といえば大変なのだろうな。この部屋を出る直前の、これから死地にでも赴くような決死の面構えは中々に愉快なものだった」
「へえ?学者さんにも色々あるんだなぁ」
「学者?」
「なんだいその、豆鉄砲を眉間に食らった鳩みたいな顔は」
「うーむ、まあなんだ、あれは学者として大成した男ではあるが、父親としては至らぬ男であるばかりに、小娘1人に会うだけのことが世紀の大イベントとなってしまうのだな」
「……あー、小娘って、アメリカって、ああ、そういうこと」
「あれも情けない男だと思わんか、花京院?」
「そこら辺はほら、気ままに独身やってるぼくには突っ込めない所だろう。さ、そろそろぼくも飲もうかな」
プルタブを起こし缶を傾け、しゅわしゅわと弾けながら喉を通り抜けるにがみと共に、どうにも難しいというか、あまり参加したい類ではない話題を飲み下す。うむ、冬とはいえ軽く運動をした後だからなのだろうか。ビールが旨い。つまみの軟骨も最高だ。
「あ、花京院。それ、わたしも食べる。こちらに寄越せ」
「君がこっちに来るべきだ。食べ物はちゃんとテーブルに置いて頂くものだよ」
「承太郎みたいなことを言うな。どいつもこいつも気の利かん」
ケッ、と毒づきながら新しいスルメを咥えたDIOは、どうあってもソファーの上からずらかる気はないようだった。きっと承太郎は口煩いことを言いながらも、なんだかんだでDIOを甘やかしてしまうのだろう。しかしぼくはこの吸血鬼の恋人でもなんでもなく、それ以前に友人ですらないわけなので、言いなりになってやる義理など1ミクロンも存在しないのだ。せいぜい不便な思いをすればいい、ふふふ。
「――む」
「電話?」
「いや、この音はメールだ。ええと、どこだ、携帯電話よ、どこにいる」
「君の近くから聞こえたけど」
「お、あった」
「承太郎、なんだって?」
「何故承太郎からのメールだと決めつけてかかるのだ」
「だって君を構う物好きなんて、承太郎くらいなものじゃあないか」
「どうにも貴様は年を経るごとにわたしに舐めてかかってくる傾向があるようだな。どれ待っていろ、今一度教育をし直してやる。まずは肉の芽だ」
「勘弁してくれよ、吐くぞ」
「やめろ汚らしい」
下らないやり取りを交わしている間にも、DIOは慣れた手付きで返信文を打っている。いい加減付き合いも長くなってしまったものではあるが、いまいち未だに「DIOと携帯電話」という組み合わせにはもやっとした違和感を覚えてしまう。
最近はすっかり普通の若者のような格好をすることが多くなり、承太郎との生活で随分と丸くなったDIOである。けれどやはり、昔の浮世離れした格好と雰囲気の印象が強く残っているからなのだろうか。DIOという名前を思い浮かべてみると、パッと脳裏に現れるのはエジプトで対峙したDIOなのだった。
まあ、お腹に穴を開けられて、随分長いこと生死の境を彷徨ったわけではあるし。これ以上ないインパクトとしてあのDIOの姿が頭の中に焼付いていたって、おかしな話ではないのだろう。
「息子だ」
「は?」
「だから、メールの相手だ」
「えっ、えっ」
「どうした花京院、喉に何か詰まらせたのか。吐くなら外へ行けよ。我が家の中では唾液の一滴を零すことも許さん」
「えっ、いやその、え、君、子供いたの?」
「む?知らなかったのか?」
「まったくの初耳だ」
驚いた。この上なく驚いた。というかまたぼくをからかっているのではとしか思えないのだが、DIOは当たり前のことを当たり前に言っただけといった風情で、もっちゃもっちゃとスルメを頬張っている。
「本当に?友達いないからって見栄張ってないか?」
「貴様と一緒にするな」
どうやら事実であるらしい。ぼくをからかう時には半円に歪む赤い瞳が、今は本当に嫌そうにじっとりと細まっている。嘘ばかりつく口先よりも、その目は余程雄弁に真実を物語っていた。
「イタリアに1人、アメリカに3人」
「4人もいるのか!?」
「そういえば上2人はそろそろ二十歳になるらしい」
「でかっ!」
スルメを齧る所作まで妙に芸術作品染みているこの吸血鬼。外見年齢は20歳そこそこで止まっているらしく、パっと見では20代半ばの青年である。成人を控えた息子がいるようには到底見えやしない。
いやそれ以前に、DIOという生き物と父親という肩書が、死ぬほど噛み合っていない気がしてならないのだった。DIOに父性などというものがあるのだろうか。メールのやり取りをする程度には、慕われているようではあるが。
「ああそうだ、わたしもとうとう写メなる機能の使用方法をマスターしたのだぞ。とくと見よ、これが我が息子たちである!」
「……なんかやたら近くない?すっごく嫌そうな顔をしてる子が2人ばかりいるんだけれど」
「上の2人だな。まったく、奴らこそは下手をすれば我が虜とならんばかりにわたしを慕っているくせに、中々素直になろうとせん。どうしたものかな花京院」
「だからそういうデリケートな問題に突っ込めないんだってば、ぼくは」
3番目と深夜のハイウェイを駆け抜けて風になったこともあるのだぞー、だとか4番目が勧めてくれた漫画を大人買いしたのだぞー承太郎の財布で、だとかなんとか。ニヤニヤとそんな独り言を零すDIOの表情は、承太郎の隣にいる時のものとよく似ているように見えた。
最初にDIOの、なんていうの、この世への縁?的なものになったのは承太郎で、だからこそこの吸血鬼は独占欲と執着を拗らせて大変なことになっていたこともあったけれど、漸く彼も承太郎以外の縁を見つけることができたのだろうか。
世界を支配する帝王だとか、名前がまんま「世界」だとかいうスタンドを持っているくせに、DIOは恐ろしく狭い世界の中で生きている。承太郎に負けてからはずっと、承太郎の傍だけがDIOの世界だった。それはDIOの自業自得以外のなにものでもないし、こんな奴は首輪を嵌めて檻にぶち込んでおくくらいが丁度いいのではと思う。
しかし10年ちょっと来の知人としては、彼の世界が広くなっているらしいことを少しだけ、ほんとうにすこぅしだけ、喜ばしく感じる気持ちがなしきにもあらずだったりするわけで。まあほら、他にあいつを構ってくれる人がいれば承太郎の負担も軽くなることだしね。
「花京院。もう一本」
「本当に意地でも動こうとしないな、君」
「貴様に取らせた方が早い」
普段のぼくならば、こんなわがままなどは突っぱねてしまったのだろう。しかし今だけは何だか、ちょっとだけ承太郎の真似をしてみたい気分になっている。なのでそっと缶を放りやった。受け取ったDIOは怪訝そうに小首を傾げた。
「……素直にわたしに従う花京院とか、なんか、気持ち悪いな」
ああまったく、この吸血鬼ときたら、せっかく親切にしてやったっていうのに。もう2度とわがままなんて聞いてやらないんだからな。





「――花京院。おい花京院、生きてるか」
「…………・んん……ぅ、あ、あれ……承太郎……?」
「よくこんなの腹に乗っけて圧死しなかったな、お前」
「へ……?なんだよ君、いつの間に帰って……お、重っ!?なんだこれ、っぅ、うお……な、なんだよこの吐き気……」
「待ってろ、水でも持ってきてやる」
どうにも仰向けに寝転んでいるのだろう、という感覚はあった。しかし右足の親指一本で立っているかのような浮遊感に包まれて、ぐわりぐわりと揺れるような目眩が止まらない。まるで宇宙にまで放り出されてしまったかのような――いやむしろ掃除機に吸われるゴミにでもなったかのような、とにかく酷い気分になっていることは確かである。
寝起き――ぼくは寝起きであるのだろう。しかも二日酔いを催している。ガンガンと頭が痛くて、指の一本を動かすのも億劫だ。

「んむぅー……ふへ、ふふへへ……じょーたろー……」

愚鈍になってしまった頭の中に、不意にやってきた甘い声音が波紋のように広がってゆく。
あまい――蕩けるように甘い、ふしだらな声音である。しかし官能を煽るいやらしさはなく、なんだろう、こう、綿菓子のような。舌先でつつけばたちどころに溶けてしまう儚さを秘め、だからこそ底なしの愛しさを感じてしまう、不思議な魔力を孕んだ声である。

あなたはなにがほしいのですか、それはぼくが与えられるものなのですか――

まるで下僕にでもなったかのような台詞が滑り出し掛けたぼくの口先を、その愛しい感触はぺったりと蓋をする。柔らかな肉同士が触れ合う心地よさと、ささやかな秘め事の気配。目の奥がぼうっと熱い。
角度を変えて何度も何度も、その感触へと唇を押し付けた。ぼくという人間の全てを委ねてしまいたくなるような、危険と分かっていても飛び込んでしまいたくなる安心感がここにはある。「この存在」に触れている間は日常の些末なストレスに悩まされることもなくなるのだろう。冬の寒さに震える夜なども、二度と訪れやしないのだろう。まるで天国ではないか。このぼくの口先はたった今、天国の入り口に触れているのである――

――いいや待て。ちょっと待つのだ花京院典明よ。
ぼくは過去に一度、この突き落とされるような安堵というものに触れたことがあったのではなかったか?
その結果、さんざんっぱらに吐き散らす破目になったのではなかったか……?

「……う、うわ、うわあああ!?」
慌てて目を見開いた瞬間に天国の幻想などは霧散して、意識は一瞬のうちに覚醒した。
――DIOだ。腹の上にDIOが乗っている。微睡みの世界からやってきたぼくを出迎えたのは、とろんとろんに緩んだDIOの、あまりにもふぬけた寝顔であった。
一体どうしたことなのだ。何故この吸血鬼はぼくの上に、いつから?それに今さっきまでぼくはこいつと、こいつと――!!
「……なにやってんだ、てめーら」
「じょっ、承太郎!?」
重い足音とともに、片手にペットボトルを携えた承太郎がキッチンの方からやってくる。心臓が跳ねた。いくら意識が朦朧としていたとはいえ、ぼくは彼の恋人であるところのDIOとキスをしてしまったのである。見通しの良いリビングでの出来事だ。承太郎には丸見えだったに違いない。
「いやこれはその、ええとほら、略奪愛とかではまったくなくて!好きか嫌いかで聞かれると、DIOなんて9対1で嫌いだしな!1っていうのもなんかこう、腐れ縁的な?1人で寂しくしている時くらいは飲みに付き合ってやろうとかそういう、同情の切れっ端みないなもので、つまりぼくには君とこいつの仲をどうこうする理由なんてものはなくってだな……!」
「ふっ、くく、なぁに必死こいてんだよ、花京院。朝からあんまり笑かすんじゃあねぇぜ」
「へ……承太郎……?」
「ちょっと待ってな、それじゃあ水も飲めねぇだろ。スタープラチナ!」
「――うぐぅ!!?」
突如現れた承太郎のスタンドが、ぼくの上に乗ったDIOの体を丸太を転がすように押し退けた。ぺったりとふかふかのカーペットの上に俯せになったDIOは、それでも起きる気配がない。
上半身を起こすついでに、ぼくの反対方向を向いたDIOの顔を覗きこんでみる。そこにはやはり、とろとろに蕩けた寝顔があった。居た堪れなくなって目を反らす。妙の無邪気で庇護欲を擽られるこの寝顔などは、承太郎だけが見ていいものであるに違いないのだ。こんな姿を見たことが知られたら、どんな恐ろしい報復をされるのか分かったものではない。
「迷惑かけちまったみてーだな」
「あーあはは、まあそれなりに。暇ができたら、この前言ってた店に連れて行ってくれよ。それでチャラにしておこう」
「悪いな」
「いつ帰ってきたんだ?」
「今さっきだ」
DIOの真横に腰をおろした承太郎は、すっかり乱れてしまった金髪を愛おし気に撫でた。泥のように眠る吸血鬼を見下ろす視線もやたらに慈愛に溢れていて、見ているこっちが恥ずかしくなってしまう。なんだかんだ言いつつも、彼はDIOをとても大事にしているのだろう。DIOが「恋しい」なんてらしくない言葉を零してしまう程の、底なしの愛で以て。あーあーまったく、まったく。ちょっと前までは血を見る喧嘩ばかりをしていたくせに。
「じゃあ、そろそろ帰ろうかな。君がいるならぼくがDIOの相手する必要もないだろうしね」
「送っていく」
「え、いいのか?DIOを放っておいても。いやぼくとしちゃあ助かるんだけどな、とても」
「まだ昼にもなってねぇんだ、起きねぇよ」
最後にぽんぽん、とDIOの頭を二撫でして、承太郎が立ち上がる。横たわるDIOに目をくれることもなく、玄関へと向かっていった。
慌ててぼくも立ち上がる。承太郎を待たせるわけにはいかない。コートはソファーの上で丸まっていた。丁度、昨晩DIOが座っていた辺りである。幸いあいつの座布団にはなっていなかったようで、目立った皺はついていない。

「それじゃあな、DIO。もうあんまりつまらないことで呼ばないでくれよ」

どうせ聞こえてはいないのだろうけれど、ぼくはこの薄情者とは違うので。一応律儀に好意1割の知人へ別れの言葉を告げたのち、一晩を過ごしたリビングを後にしたのだった。
まったく、寂しいなら寂しいって、好きなら好きって言えばいいのにな、いつもの調子で。承太郎なら喜ぶんじゃあないか、きっと。
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