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秒針は止まらない

どうやら今日はよく晴れた日であるらしい。
窓辺に差す日差しは柔らかで、吹き込む風はどこまでも穏やかだ。クリーム色のカーテンが戯れるように揺れている。窓枠からちょいと身を乗り出してみれば、広葉樹の緑たちが風に浚われてゆく情景を眺めることができるのだろう。先駆けてやってきた春の情景を。

――馬鹿馬鹿しい、と呟くことすら馬鹿馬鹿しくて、わたしは部屋の半分を覆う影の中で息を吐いた。どこか遠くで鳴っているサイレンの音を聞きながら。

光の差す窓辺には、老いた男が眠っている。まるで外の世界を見せてやることが今生の手向けであるのだと言わんばかりに、窓のすぐ隣に設置された寝台で。
老いた男。
暖かな日差しに照らされて、顔中に刻まれた皺の影がくっきりと浮かび上がっていた。
その姿を醜いとは思わなかったが、この男がこの男なりに全うに生きてきたのだろう、皺の数だけの年月を称えようとも思わなかった。この男は、人間としてただ老いた。それだけだ。それだけのことである。

「なにやら、くたばりかけているようであるが。死ぬのか、貴様、承太郎」

わたしの知る承太郎という男とは、年若く溌剌とした、小憎らしいガキだった。尖った10代を経て成人を迎え、まっとうな職に就き、人の夫になれば親にもなった。それでも結局最後には、このDIOと共に生きることを選んだ、どうしようもない男。どうしようもなく愛おしい男。
いくら年齢を重ねても衰えを知らない、逞しい両腕で抱きしめられるのが好きだった。気の利く言葉の紡げない口の代わりに、わたしへの激情を伝えんとする両腕に込められた執着が心地よかった。
硬い胸に頬を押し付けていると、妙に気が安らいだ。そうしていると、たいていあいつは献身的なまでに髪を梳き、わたしを愛でた。武骨な指先が、不器用なりにわたしを壊れ物のように扱ういじらしさが、やっぱりわたしには心地がよかったのだ。

それがどうしたことだ。

そこで寝ている承太郎にはもう、わたしの愛した奴の若さ、もしくは青さと言ってもいいのかもしれないものが、欠片だって残っちゃいない。
静かに死を待つ男はさながら枯れ木である。この冬に置きざられてゆくのだろう、朽ちた大木がそこにいる。

「――てめー、今更何言ってやがるんだ」
「……承太郎?」

厚ぼったくなった目蓋が、そっと持ち上がる。日差しの眩さに眉を寄せ、ぱしぱしと瞬いた。本人的にはただ眩しいだけなのだろうが、傍から見れば恐ろしく不機嫌そうな面はいかにも「承太郎」らしくって、無意識に、わたしは含み笑いを漏らしていた。
承太郎の顔が、より一層の険を増す。そうして細まった目で数秒間、じっとわたしを睨むように見つめた後に、億劫そうにやれやれだぜと呟いた。もう我慢ができなかった。そんな男を指さして、わたしはとうとう、声を上げて笑った。
「死にかけのじじいになっても、お前は変わらんのだなぁ、承太郎!」
「うるせーよ。じじいっつても、まだ××歳だぜ。お前に比べりゃ全然若ぇ」
「おや、思っていたよりも随分と若い。まだそんな年だったのか。もっと老けて見えたのだが」
「さっきからなんか、変だぜお前。そろそろ俺が死ぬってことも、俺の年も、初めて聞いたって顔をしやがる」
「ふぅむ。どうにもわたしは、ついさっきまで、もっと若いお前と共にいたような気がするのだがな」
「とうとうボケたか、じじい」
くっと笑った承太郎の口元には、やはり見慣れない皺が刻まれている。見苦しい、と思ったわけではないが、なんとなく見ていたくなかったので、わたしはそれとなく目を逸らした。
ちょっとした遣る瀬無さと共に見やった先では、何もない壁にひょいとそれだけ、古びた壁掛け時計が掲げられている。忙しなく秒針を動かしながら、せっせと時を刻んでいた。

「――端から分かってたことだ。俺にとっちゃ時間ってのは有限なもので、お前には無限に用意されている。それだけのことなんだぜ、DIO。最初からな」

分かったような口を利く男が憎らしかった。拳を一発くれてやりたい所ではあるが、実行しようものならば、奴の頬へ辿り着く前にこの手は灰になってしまうことだろう。
承太郎を殴ることすらできない苛立ちを飲み込んで、わたしは時計を睨みつけた。秒針は止まらない。時は一方通行に進み続けるばかりである。
「お前も不憫な男だなぁ、承太郎。わたしを置いて、この世から旅立たねばならぬとは。せっかくこのDIOが、お前なんてつまらない男を愛してやったというのにな」
「泣くなよ」
「泣くって?わたしが?」
「お前に泣かれると、どうしていいか分からん。今にして思えば俺は、人生の殆どの時間をお前に吸い取られてきたようなもんだったが、それでも結局最後まで、どうしてやるのが正解なのかが分からなかった」
「お前の前で泣いたことなどないぞ」
「ちょいちょいあったろ、そういうことも。お前とくれば、自分に都合の悪いことだけはすぐに忘れやがる」
目尻の皺を深め、承太郎は笑う。そんなみっともない皺に見覚えなどなかったし、こんな穏やかぶった顔をする承太郎なんてわたしは知らない。それでもこの老いた男にはど誤魔化しきれない「わたしの知る承太郎」の面影が残っていて、例えば太い眉だとか、やたらに鋭い緑色の瞳だとか、クソ生意気に片端だけを持ち上げてみせる口元だとか――それがまた、わたしをたまらない気分にさせるのだ。
「愛してる、っつってやったら、混乱して泣きやがった」
「記憶にないな」
「出張で家を空けると言やあ、わたしの目の届く場所にお前がいないのは我慢ならんとかぬかしながら泣きやがった。ついでに腹に一発蹴り食らわされたのも忘れてねぇぞ」
「お前だってわたしを殴った」
「覚えてんじゃあねぇか」
「ちがう、わたしは泣いてなどいない。でもお前を蹴ったことと、殴り返されたことは覚えている。それだけだ」
「そうかい」
「そうなのだ」
嘘だ。本当は覚えている。承太郎の前で垂れ流してしまった涙の屈辱など、忘れたくても忘れられやしなかった。

「ま――せめて1世紀くらいの間は、忘れてくれるなよ。散々俺に迷惑掛け通しだったうん10年のことをな」

たった1世紀で、お前は満足なのか。それだけで満足できる程度の執着でしかなかったのか。
そう詰ってやろうとも思ったが、結局はやめにした。
承太郎は、らしくもなくロマンティックな感傷に浸っているようだった。馬鹿げた一期の夢である。しかしそれを損なわせてやりたくないと思う程度には、わたしはあまりにも、この男のことが――あまりにも、あまりにも。

「でなけりゃ、お前の気まぐれに付き合われっぱなしだった俺の人生も報われねぇぜ」
静かに笑う男は、どこか照れくさげに睫毛を揺らした。
「好きでわたしに付き合っていたくせに何を言う。お前の人生は、このDIOに看取られることで十二分に報われるのだ。それ以上を望むのは欲張りが過ぎるというものだ、承太郎」
「ああ――かもしれねぇなぁ」
「――、」
殊勝なことを言うなよ、気持ち悪い。
反射的に漏らしてしまった声を耳ざとく聞きつけて、承太郎は苦笑交じりにやれやれだぜ、と呟いた。
1歩だけ、前に進む。この部屋を覆う影の淵に立つも、承太郎のベッドからは未だ、足の裏1つ分程の距離が離れていた。それでも確かに1歩分だけは近くなった距離で、承太郎を見下ろした。
「――なんとか、せめてあと50年ほど。この世にしがみ付いてはいられないものか、承太郎」
「無理だろうな」
「諦めの早い男は嫌われるぞ」
「お前今更、俺を嫌いになれるのかよ」
「わたしはお前が嫌いだ。大嫌いだ。ふふん、どうだどうだ承太郎。こんなことくらい、簡単に言えるのだぞ。つまりわたしがお前に抱く愛情とは、結局その程度のものでしか――」
「でも好きなんだろ」
「……」
「……おい黙るなよ。なんか、滑ったみてーになっちまうだろうが」
「事実滑っているのだから仕方がない。そういうことを言いたいなら、もっと普段から言っておくべきだったのだ。今のお前がそんなことを言ったって、今際に気が狂ったようにしか見えんのだぞ、アホの承太郎よ」
「うっせーな」
承太郎の目がすっと細まる。照れているようにも苛立っているようにも見えた。それでもわたしから視線を逸らす気配はない。まっすぐ、わたしを見ている。降り注ぎ続ける陽の光を全身に浴びながら。

「――わたしはな、承太郎」

眩い日差しに目が眩む。けれどこの男から、目を逸らしてなるものか。だって承太郎が、わたしを見ている。眼球を焼かれるような痛みを我慢してやる理由なんて、それだけで充分だ。その程度には、愛しているつもりでいる。
「お前がお前だったからよかったのだ。確かにわたしたちの間には切っても切れない因縁があったのかもしれないが、それとこれとは全く別の話だろう。お前がジョースターの血に連なるものだからお前を愛した、なんてわけではないのだぞ。この世に蠢く有象無象の1人としてのお前が好きだった。だから多分、どうしてもお前でなければいけないというわけではない。偶々お前と巡り合って、偶々愛情を抱いてしまった。それだけの話だ」
「んなこと、改めて言われなくたって知ってるぜ」

――窓の外では未だ、サイレンが鳴り続けているようだった。甲高くも重々しいその音が鼓膜に叩きつけられるにつれ、酷く心臓の辺りがざわめいて、妙に息苦しい。音の塊に追い立てられるように、わたしは言葉を重ねた。少々、早口になって。

「暫くは、お前の喪に服してやらんこともないのだが。その内わたしは、次を見つけるぞ。お前のせいでうっかりと、愛なるものの心地よさを知ってしまったものだからな。お前だけを想って生きてゆくには、永遠の時間は長すぎる。わたしには無理だ。そんなに義理堅くできちゃいない。知っているだろ、承太郎。本当のわたしは、こういう、薄情な男なのだ。お前なぞに感化されて、ちっとばかし変わってしまったところもあるのだが。それでもわたしはわたしだ、お前ごときにわたしの全てを揺るがされてたまるものか。どうだ、承太郎、ざまあみろ。お前がわたしに与えた変化なんて、結局は微々たるものでしかない。
わたしを――わたしを永遠にお前だけのものにしておきたいのならば、わたしと共に永遠を生きる覚悟を決めることだ。お前も人間をやめてしまえばいい。そうすればわたしは、このDIOは、永遠にお前だけのDIOでいることができるのだぞ、そうなってやるのもやぶさかではないと思っている、馬鹿げた話だが、本当にもう、馬鹿馬鹿しくてたまらないのだが、承太郎――承太郎よ、」

わたしが今際の承太郎に伝えてやりたかったのは、別にわたしはお前なんぞに頼らなくても生きてゆけるのだから、妙な未練を残さずせいぜい穏やかに死んでゆけ、ということのはずだった。
しかしいざ口を開いてみれば、承太郎を突き放すつもりの言葉には未練がましい修飾が纏わりつき、この喉から発せられた声は自分のものだと信じたくはないほどに震えていた。

話している内に訳が分からなくなってくる。
わたしが一等に望んでいることとはなんだ。我が眷属となった承太郎と共に、永遠の夜を生きることか。違う。わたしはきっと、変化することをやめてしまった承太郎には興味を抱けない。順当に年を取ってゆくくせに、それでも土台にある「クソ生意気なガキ」であるところだけはまったく変わらない承太郎が好きだった。そんなガキがガキなりに自立をして、立派な一匹の男の面になってゆく変化の過程を愛していた。この男の時の流れを間近で眺めることに幸福を見出す平和ボケしてしまっていた自分のことだって、馬鹿だ馬鹿だとは思えども、本当はちょっと、好きだった。
だから――いいや、だからそれが、どうしたというのだ。
無意味な言葉で承太郎との時間の終わりを引き延ばそうたって、1秒は1秒として等間隔に刻まれてゆくばかりだし、承太郎はやがて死ぬ。それでもわたしは往生際の悪いことに、語る言葉が尽きても承太郎、承太郎と、この男の名を呼び続けるのだ。少しでも1秒先の未来の到来を遅らせる為に。
――これは感傷だ。承太郎と別れがたい、なんてつまらない感傷が、わたしを酷く愚かな男にしてしまっている。

途方に暮れて、爪を噛んだ。陽だまりの中の承太郎は、呆れた様子で片頬を吊り上げた。

「そういうのになりたかったのか、お前。永遠に俺だけのDIOでいたいって?」
「知らんし分からん、くそ、わたしは何を言っているのだ。お前のせいだぞ、承太郎。お前のせいでわたしは、感傷とかいうクソ甘ったるい惰弱を抱える羽目になってしまったのだ」
「そんな感傷くらい、それこそ1世紀も経たないうちに、お前はさっさと忘れちまうんだろうぜ。自分でも言ってただろ、薄情な男なのだって」
「知ったような口でわたしを語るな」
「仕方ねぇだろうが。DIOとかいう訳の分からん生き物に、何十年も付き合わされてきたんだ。したくもない理解だってしちまうものだ」
「理解。お前はこのDIOを、理解しているというのか」
「今更何言ってんだ」
やれやれだぜ、とは言わなかったが、そんな顔をした承太郎がゆっくりと起き上る。萎れてしまった腕をシーツに突っ張り、大儀そうにゆっくりと。日光の下での出来事だ。少しばかり薄くなってしまった背を支えることすら、吸血鬼であるわたしはできやしない。
「お前は、すっかりしょぼくれちまった俺を指さして笑ってるくらいで丁度なんだ。だから――」
ようやっとのことで上半身を起こした承太郎は、日の差す窓へ背を向けた。影の差した面差しには、若い頃の面影が増しているように見えた。

「泣くんじゃあねぇよ。言ったろうが。お前に泣かれると、どうすりゃいいのかとんと分からん」

そろりと伸ばされた指先は悲しくなるくらいにしょぼくれているくせに、わたしの目元を拭った親指の力強さはまったく変わっちゃいなかった。擦られた目の淵が痛い。こんなに痛い思いをしているのに、流したくもない涙は溢れるばかりで、わたしの目元は一向に濡れたままだ。
それでも承太郎は拭い続ける。この男本当にどうすればいいのか分かってないのだな、と思えば多少は愉快な気分にもなるものだ。だから、笑った。多分、ちゃんと笑えているはずだ。口元が引き攣る感覚があったし、差向いになった承太郎はきまり悪げに眉を顰めている。わたしに小馬鹿にされて悔しいと思うのに、反論ができない時の承太郎の顔である。
「こういう時はな、承太郎。お前にはどうすることも出来んのだ。わたしの気が済むまで傍にいて、居心地の悪い思いをしながら待つしかない」
「なんだよ、そんなことでよかったのか。それじゃあ俺は、分からんなりにも毎回正解してたってことなんだな」
「このDIOを理解している、とは一体なんだったのだ。こんなことも知らなかったのではないか」
「揚げ足取んな」
頬に張り付いた承太郎の手に触れた。温かい感触が掌に伝わって、老いても変わらぬ体温に安堵を得る。ちょっとばかり縮まった距離で、承太郎は尚も穏やかにわたしを見つめていた。冬の晴れ間にも似た、どこまでも凪いだ眼差しで。
「――正直なことを言えば、俺はまったくお前の心配なんてものはしちゃいねぇ。お前ほど生き汚い奴を他に知らん。実際お前、生活していくだけなら本当は、俺が面倒見てやる必要もなかったんだろう。海から出てきた後みたいに、自分でどうにでもできたはずだ。それでも俺の元に何十年も留まり続けていてくれたことが、俺はとんでもなく嬉しかったんだぜ」
「承太郎、感傷に惑わされるな。何を言いたいのか分からなくなっているぞ」
「さっきのお前よりはましだ」
承太郎が笑ったので私も笑った。相変わらずカーテンは揺れていて、サイレンは鳴っていて、秒針はせっせと働いていた。時間が流れてゆく。緩やかに。
「――っていうのも、ジョルノ君がな」
「ハルノ?あれが一体、どうしたと」
「先月の頭辺りに、ここに来た。俺が死んだあとのDIOの面倒は、ちゃんと自分が見ていくつもりだから安心してくれ、だとか、たったそれだけを言う為にイタリアから出てきたらしい。電話でもよかったろうに、律儀な子だぜ。お前みたいなちゃらんぽらんに似なくて本当によかったな」
「一体なんなのだ、お前たちは。面倒を見るだとかなんだとか、人をまるで、小さな子供か何かのように」
「そんだけ大事にされてんだって、素直に喜んでおけばいい」
「お前もわたしが大事なのか」
「でなけりゃこんな手のかかる奴と何十年も一緒にいようと思わねぇよ」
承太郎の手がぎこちなく蠢いて、わたしの頬を撫でさする。そのたびに生まれる摩擦の熱に、目のずっと奥の方が溶けてゆく。溢れるばかりの涙を、承太郎はやっぱり乱暴に拭っていって、擦られた箇所はやっぱり痛い。
痛いのだ、大馬鹿者。
そうやって罵ってみるものの、どうにも今のわたしは怒るよりも笑っていたがっているようで、半笑いのままで口にした罵倒文句はただじゃれるような響きがあるのみだ。
「本当に心配なんかは、全くしちゃあいないんだ。お前は図太くて、息子は出来過ぎなくらいよくできた男だ。俺が心配するようなことは、なにもない。けどな、」
笑みを深めた承太郎は、頬に掛かるわたしの髪を、耳元へと掻き上げた。

「――ただもう、ひたすら。お前と別れ難くて、仕方がない」

承太郎が身を乗り出して、ベッドが軋む。わたしの頬の辺りを擽っていた指先が耳のすぐ隣に差しこまれて――そこで、終わりだ。ベッドに縛り付けられた男は、わたしの後頭部を引き寄せることができなかった。日の下に出ることの出来ない私は、この男の背を抱き寄せてやることができなかった。わたしがこの手で掴んだ承太郎の手首だけが、わたしたちの寄る辺である。

「残念だったな、承太郎」
「ああ。本当に」

これ以上この男の手首を握っていると、きっとよくないことになる。具体的に言えば、まずベッドからこいつを引きずり降ろして、影の中に引っ張り込む。そして首筋に牙を突き立て、わたしの血を分け与え、ここに新たな吸血鬼を誕生させるのだ。一時の感傷に身を任せるがままに。
それは、あってはならないことだ。後悔するに決まっている。
なのでわたしは、承太郎の手首を手放した。承太郎は別段驚く素振りもなく、つんのめった体を何事もなかったかのように引込めて、シーツの上に転がった。
「ちょいと疲れたな。しばらく寝るぜ。お前もそろそろ部屋に帰った方がいい。本当は寝てなきゃならねぇ時間なんだろう。毎度のことだが、無理をするな」
「毎度?何の話だ?」
「だから、よせっつってんのにお前が毎度毎度この部屋に陣取って俺が起きるのを待ってる話だ。何度も言っただろう。うっかり灰になられでもしたら困るってな」
覚えのない話である。だが今はそんなことなどどうでもいい。
「承太郎。まだ寝るな、承太郎。もう少しだけ、わたしの話し相手を務めるのだ」
「駄目だ、もう眠くてたまらん」
「承太郎」
「起きたらまた、付き合ってやる。だからしばらく寝かせてくれ」
「じゃあ待っている。ここで待っている。だから早く目を覚ますのだぞ」
「帰れっつったところだろうが」
「待っている。わたしはそうしたい。お前にわたしの行動を阻む権利などあるものか」
「ああ、もう、分かった、分かった。好きにしろよ、馬鹿野郎」
苦笑を浮かべることすらかったるい、と言わんばかりの投げやりな声を残し、承太郎は毛布を手繰り寄せながらあっちを向く。このDIOに背を向けて、忌々しい太陽の方向へ。階のような光の立ち込める、開け放たれた窓の方へ。

「――、」

衝動的に、わたしは壁掛け時計の元へと駆けた。白い壁から剥ぎ取ってフローリングへと叩きつける。甲高い音を立てながらガラスが割れて、弾き飛ばされた長針が足元に転がった。

それでも時は止まらない。

秒針はちかちかと音を立てながら時を進め、サイレンは鳴り続けるばかりである。慟哭のような音色を垂れ流しに、ずっと、ずっと、窓の向こう、遠くでずっと鳴っている。慟哭に暮れたいのはわたしの方だ。けれど承太郎は時計の盤面が割れる音が鳴っても起きない程の深い眠りに落ちているようなので、溢れそうになる涙を我慢する。承太郎を困らせることもできない涙などに、垂れ流す価値はない。


「――承太郎。早く、起きるのだ。早く。早く」


カーテンがそよ風に揺れている。穏やかな風。暖かな。
春がすぐそこまでやってきているのだろう。
じきに冬が、終わるのだ。









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