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月曜日

――春が来たのだなぁ、と思った。風に吹かれた桜の花弁が、鼻先に張り付いたので。

「……」
無礼にもほどがある春の尖兵を、手の甲ではたき落とす。再び夜の風に捕まった桃色は、急流に押し流される小石のごとく、わたしの背後へ流れていった。
桃色。桜。生温くなった風。よく晴れた月の夜。
わたしが承太郎の膝元で無為な時間を貪っている内に、世界はすっかり冬から春へと姿を変えていたのである。

『承太郎、なんだこの、硝子のくらげは』
『風鈴だ。見たことないのか』
『ない。それは、あれか。窓からの侵入者を感知して、音を鳴らす類のものなのか』
『んな物騒なもんが必要になる生活はしてねーよ』
『では何のために。そんなもの、窓を閉める時に邪魔になるだけではないのか』
『風流ってもんだ』
『ふうりゅう?』
『つまり――そうだなぁ。夏が、来たなぁと。日本人はこのりんりん鳴る音を聞いて、夏がやってきたことを実感してきたわけだ』
『んん?よく分からんぞ。つまり日本人とは、このりんりんうるさい音を聞くまで夏を夏と認識できぬ、愚かな民族だということなのか』
『ちげーよ、そうじゃあなくてだな』
『もっと分かりやすく説明しろ』
『だから、つまりだな――例えば来年のこの日、この時間、俺とお前はこの場所で同じ風鈴の音を聞くとする。ああ、来年だけじゃあねぇな。その次も、そのまた次もだ。そのたびにお前は、どう思う?』
『どう?……わたしは飽きずに、今年も承太郎と一緒にいるのだなぁ、だとか、そういう』
『それだ。それが風流――っつーかまあ、趣ってやつなんだな』
『……ああ、ああ、そうか、うむ、なんとなく分からないでもないぞ』
『そりゃあなによりだ』
『というかお前は、そんなに何年もわたしと共にいるつもりでいたのだな』
『てめーは違うのかよ』
『どうだろうなぁ、承太郎』

元々わたしには、季節の移り変わりに感慨を抱くような情緒は備わっていなかった。だってそんなものは、道端に咲く花の色が変わるというだけのことだ。気温が上がったり下がったりするだけのことだ。昔から花などに関心はなかったし、人間をやめてからは気温の変化で一々着るものを変える必要もなくなった。わたしにとっての『季節』とは、ただカレンダーの数字が変わってゆくだけのことなのである。
しかし、これがまた、承太郎のせいで。少しずつ、けれど着実にこのDIOという存在を歪めてゆくあの男のせいでうっかりと、わたしは新しい季節の到来を喜ばしく受け止める、なんて情緒を手に入れてしまったのだった。
いつだったかの、夏の日だ。軒下におざなりに吊るされた風鈴を眺めながら、承太郎と、『これから先』の話をした。承太郎はわたしと共に、何十年先までも生きてゆくつもりであるようだった。言葉にこそしなかったが、わたしだって、お前を死ぬまで離してやるものかと思ったものだ。今だってそう思っている。季節がどれだけ巡ろうと、お前の傍らにはこのDIOがいつだっているのだぞと。
それからだ。承太郎と共に過ごした季節の数を、ぼんやりと数えるようになったのは。次の季節にはあいつと何をしようかと、どこへ連れて行かせようかと、馬鹿馬鹿しくも平和な陰謀を巡らせるようになったのは。知らずの内にわたしの口元は緩み、目ざとく見とがめた承太郎に『なににやけてやがるんだ』と頭を小突かれて、かと思えば両腕いっぱいに抱きしめられるのだ。

――夏祭りなるものに連れ出されれば、夜の海岸を歩いたこともある。線香花火、というものをちまちまと楽しんだし、もっと派手な花火を持って承太郎を追い回したこともあった。その次の秋には高くなった空の下を、落ち葉を踏みしめながら散歩をして、冬には牡丹雪が降りつもる様を眺めながら酒を飲んだ。承太郎と過ごした時間のことは、何一つ忘れちゃいない。何一つ。
わたしだけがこうであるなら、これほどまでに悔しく忌々しい話もない。ただ承太郎はきっと、わたし以上にわたしとの時間というものを大切にしているのだ。そういう、男である。あれが見た目よりずっと情の深い男であることを、わたしはちゃんと知っている。そのおかげで、わたしは未だ自尊心を保っていられるのだろう。こんな、まったく『らしくはない』わたしになってしまった今であっても。わたしはあいつを愛しているわけではあるが、あいつはそれ以上にこのDIOを愛してやがるのだぜ、と思えばこそ。

『桜でも眺めながら一杯飲もうって、約束したような気がするんだが。お前、覚えてるか』
『うん?……うん?』
『しただろ、忘れたのかよ』
『ああ――うむ、なんとなく思い出した。去年の今時分の話だな。あの時は結局大雨が降って桜がざっと散ってしまったから、来年こそはと約束をしたのだったな』
『……聞いといてなんだが、案外こういうの覚えてるもんなんだな、お前』
『このDIOを愚弄するか無礼者』
『照れ隠ししてんだよ。察せよ、アホ』
『照れる?お前が?ああ、ふふ、このDIOがしっかりと約束を覚えていたものだから、お前の心臓はずきゅーんとした衝撃に刺し貫かれてしまったのだな。なんともまあ、らしくもない。ご愁傷様だな、承太郎!』
『うっせーよ』

今年の桜は、もう咲いてしまっているわけではあるが。
今この時も一心不乱にキーボードを叩いているのであろう承太郎は、果たしてあれ以来毎年恒例になった『花見』のことを覚えているのだろうか。咲いたばかりの桜が今日明日で散ることはなかろうが、この花とくれば可憐な見た目に反して、散るときはそれはもう一瞬にして潔く散開してゆくのである。今年は――承太郎の手が空くまでの間、この花たちは散らずにいてくれるのだろうか。
「……、」
感慨もここまで行くとただの感傷であり、このDIOがそんなものに浸っているさまというものは我がことながら気色が悪いことこの上ない。それもこれも、何日もわたしをないがしろにする承太郎が悪いのだ。絶えず10メートルと離れていない位置にいるくせに、決してわたしを見ようとしない。出張だとか言って放置を食らわせられるよりも、余程腹の立つことだ。

1人で春に浸っていたって腹が立つばかりなので、思考を振り捨て歩調を早めた。わたしがいつもより早く夜の散歩から帰ったって、今の承太郎は気に留めやしないのだろう。それでも今のわたしにはもう、承太郎の傍にしか『帰る場所』がない。なんと、忌々しい話。


「…………」
襖を開けた途端に鼓膜を打つキーボードを叩く音には、最早溜息すらも出やしない。やはりこちらを振り返らない背中を睨みつけ、すっかりわたしのスペースとなってしまった承太郎の万年床に転がった。枕元に積まれた本はすべてわたしが持ち込んだものだ。山が増えるにつれ、承太郎とまともな接触がなくなった時間というものを突き付けられる思いである。
腸が煮えくり返るばかりなので、こっちを見ろと。感情のままにそんなことを言おうとしたものの、結局はやめにした。もう2度も、足首を引っ掴まれて部屋から追い出されている。これ以上、あんな屈辱的な思いをするのはごめんだ。
「――、」
吹き付ける風が窓を揺らし、かたかたと音が鳴る。キーボードのタッチ音も止まらない。そこにわたしがページを捲る音が加わったものの、夜の和室は驚く程に静かである。こうも静まり返ってちゃあ逆に落ち着かないものではあるが、わたしがどれだけ訴えようが承太郎には現状を変える気がないわけなので、わたしはもう借りてきたネコのように大人しく口を噤むほかにない。
本当に、いつからこのDIOはこんなにも殊勝な性質になってしまったのだろう。承太郎を思えばこその変化である、というのがあまりにも悔しい。悔しい。そしてそんな変化をそこまで悪いものではない、と思ってしまっている自分などは、輪をかけて億倍憎らしいものであった。

「――背中くらいなら、使ってもいい」

不意に――腹の底に響くような低い、静かな声が、停滞する和室の空気を振動させた。紙面から目を離し、音の発生源へと首を向ける。相変わらず、こちらには広い背中を向けたきり。思わず舌打ちを漏らしてしまう。
「『おかえり』の一言も返さん男のことなど知るものか」
「お前だって『ただいま』の一言もなかっただろ」
「『ただいま』」
「……、」
承太郎が押し黙る。沈みゆくばかりだった気分は少しだけ上を向いて、わたしは本を放り投げ、体を起こした。

「……『おかえり』」

これでもかと気まずさを滲ませた承太郎の声が、心地よかった。たったこれだけでないがしろにされてきた時間がチャラになるわけがないのだが、それでもちょっとばかりは許してやろうかなと、そう思い始めている己の安っぽさに心底呆れる思いである。まったく。承太郎を恋い慕う私というものは、まったくもって、まったくもう。
「お前はこのDIOのことを、いい年をしているくせにいつまでもふらふらしやがって、と散々小馬鹿にしてきたわけであるが。今ばかりはわたしの方が、少々『おとな』であったようだなぁ、承太郎?」
「うるせーな」
「大の男が意地を張ったって、可愛らしくもなんともないのだぞ」
「ったく。珍しく大人しくしてやがるもんだからって、ちょいと気を回してやればこれだ。やっぱ構うんじゃあなかったぜ」
「お前の負けだな、承太郎」
不動の背中に寄りかかり、わたしはぼんやり安っぽい蛍光灯を見上げた。読んでいた本は勢いで放り出してきてしまったので、手持ち無沙汰なのである。ほんの少し這えば届く場所にはあるのだが、今はもう少し、承太郎の硬い背中に体重を預けていたかった。
「なんともまあ、座り心地の悪い。背もたれとしては、枕の方が億倍優秀だな」
「ならそっちにすりゃあいい」
「いい。お前でいい」
「なら文句言うんじゃあねぇよ」
「照れ隠しをしているのだ。察せよ、この阿呆」
「……そうかい」
「きゅんときたろ?」
「きてねーよ」
「素直になっちまえばよかろうにぃ」
他愛のない言葉を交わす間も、承太郎は熱心にモニターを見つめるばかりで、背後を振り返ろうとはしなかった。なのに背中同士が触れ合っているというだけで、それなりに満足をしてしまっているわたしがいる。ちょっとばかり腹が立ったので、頭を反らし、承太郎の後頭部に頭突きを仕掛けてみた。大人しくしてろ、と吐き捨てた承太郎は、やっぱりわたしを見ようとしない。それでも妙に、幸せだった。まったく、承太郎を恋い慕う私というものは。






暑かろうが寒かろうが大抵どこかしらでくっついてます


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