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引力圏内

「一緒に、逃げよう」

信じていたのだ。
彼に手を差し伸べた瞬間のぼくは、彼と共に歩む未来というものが伸ばした手の先にあるのだと、根拠もなく確信をしていたのだった。

粗末だけれど2人で暮らしてゆくには充分な家。暖かな食事。2人寄り添って眠れるベッド。
そして、ぼくに笑いかけてくれる彼。
それだけがあればよかった。思い浮かべた情景は甘い幸福感で満ちていた。

その世界では彼が貧困に喘ぐこともない。屋根の下でどれだけでも大好きな読書ができるし、身売りなどはもう2度としなくてもいい。ぼくがさせない。
彼にだって年齢にみあった幸せを手に入れる権利がある。強く優し父がいるからこそ、ぼくは年相応の子供でいられたのだろう。けれど彼には庇護の手を差し伸べてくれる大人はいない。彼の周りにいる大人たちは、彼を浪費してゆくばかりだった。
だからこそぼくが。彼よりも体が大きくて力も強い、ほんの少しだけ彼よりも大人であるぼくこそが、彼を守ってあげられる唯一でありたいと思ったのだ。

「……お前はどこまでもばかだ。ばかな奴だ。ぼくらみたいな子供がたった2人で、どこまで行けるっていうんだ」
「どこまでも行けるさ。君がぼくの手を離さないでいてくれたら、どこまでも」
「現実はそんなに優しくない」
「その分ぼくが君に優しくする」
「そういうことを言ってるんじゃない」
「いいや、ぼくが言いたいのは結局そういうことなんだ。ぼくは君に優しくなかった人達とは違う。そうありたいと思ってる。だからぼくを、信じてほしい」

道理も何もないことを言っている自覚はあった。彼の訴えを履き違えた返答をしていることも分かっていた。それでも無理矢理にこじつけて、ぼくなりの訴えを通さずにはいられないほどに、ぼくは必死だった。
彼は呆れていた。言葉通りぼくを馬鹿にするように笑って、けれどどうしたことか、そんな顔をしたままに、ぼくの手を握り返したのだった。
真っ白な手。指先だけが真っ赤に荒れている。たまらない気分になって、ぼくへと伸ばしてくれた彼の手を、渾身の力で握りしめた。彼の呆れ顔は益々深まってゆく。しかしそこにどんな感情が籠っていようとも、彼が笑っているのだという事実が嬉しかった。とても、とても。

「お前こそ、ぼくを信じられるのか?お前が寝ている間に金目のものを盗って、1人でどこかへ逃げてしまうかもしれない」
「信じるさ。何があってもぼくは、君を信じる」
「またお得意の同情か?」
「そうだ。君が不憫で仕方がない」
「お前は出会ってからずっとそればかりだ。いいか、今のぼくは少々気落ちしているだけなんだ。お前が思っているほどぼくは不幸じゃない。明日になれば、いつものぼくに戻れるはずさ」
「ぼくにはそれが、自分に言い聞かせているようにしか聞こえないよ」
「……分かったようなことを言いやがって」

立てた膝の間に顔を埋めたまま、彼はぼくを睨みつけた。しかしそれだけだった。青色の双眸には昨日までの自信に満ちた力強さはなかったし、拳が飛んでくることも、なかった。

「ぼくが、君を守る」
「頼んでない」
「ぼくがそうしたいんだ。なあ、ぼくはなにも同情だけでこんなことを言っているんじゃあないんだ。ぼくにとっての君は特別な男の子で、君にとってのぼくもそうであればいいって思ってる。ぼくはきっと、君のことを――」
「やめろ。そういうことは、ぼくに言うものじゃない」
「それでも……本心なんだよ」
「……」

彼の瞳はどこまでも無感動だった。けれどかんかんに冷えてしまっていた白い手は、ぎこちなくもぼくの手を握り返してくれたのだ。

「どれだけ恥ずかしいことを言ってるのかお前、分かってるのか?」
「わ――分かってるさ。正直今にも心臓が飛び出してきそうになってるよ。でも君の為なら心臓の1つくらい、駄目になってしまっていいとも思っている」
「知ってるか?人間、心臓が駄目になると死んじまうんだぜ」
「知ってるよ。それだけの気持ちを、君に捧げているつもりだ」
「重い」
「自覚はある」

分かったようなことを言って、あの時のぼくは本当は何も分かってなかったのかもしれない。例えばぼくの気持ちを押し付けられた彼がどんな気持ちでいたかなんて、今思い返しても全く察しがつかないのだ。
それでもそんなぼくの身勝手を、許すように――あるいは縋るように。微笑んだ彼の目尻に浮かんだ涙の粒が、夜空の星よりもずっと綺麗だったということは、今でも鮮明に覚えている。

「ジョジョは、ばかだな」

優しくぼくを罵った、愛おしい声色も。








今にして思えば、彼がぼくの呼び名を呼んでくれたのはあれが初めてのことだった。
とにかく彼は、ぼくとの間に線を引きたがる人だった。決して自らの名前を教えてはくれなかったし、ぼくの名前を聞こうともしなかった。教えようとしても耳を塞いでしまうのだ。そんな中でなんとか「ジョジョ」という愛称を伝えることはできたのだが、それでも彼は、かたくなにぼくを「お前」としか呼ばないのだった。

そんな名前も知らない彼と出会ったのは、実はそう昔のことではない。50日が経つか経たないか、といったところで、「特別」という単語を持ち出すにはあまりに短い時間なのかもしれない。

出会いは本当に偶然のことだった。数人の友人と「悪い遊び」と称し、粗末な格好でロンドンの下町に繰り出した時の話である。
なにかの拍子にぼくだけがはぐれてしまい、土地勘のない街を彷徨っていた最中、彼が屈強な男に路地裏へと引っ張られてゆく現場を目撃してしまったのだ。とにかく助けなければ、と思った。遠目にも2人には友好的な雰囲気などなかったし、彼の細い手首を握る男の手は、まるで恐ろしい凶器だった。そうとしか見えなかった。
決着はあっけないものだった。ぼくの投げた石が男の側頭部に命中し、大きな体がよろけた隙に彼の手を取り逃げたというだけの顛末である。男はがなり立てながらぼくらの後を追ってきたが、頭部にダメージを負い、足を縺れさせるその男を撒くのは思いのほか容易なことだった。
むしろ大変だったのは男から逃げ切ったあと、彼と改めて差向いになってからの方だったと記憶している。

「――余計なことをするな、このまぬけっ!」

裏路地を抜け開けた地区に辿り着き、丁度ベンチも見つけたことなのでそろそろ一息入れようと、背後の彼に声を掛けようとしたその瞬間のことである。それまでは大人しくぼくに追従するのみだった彼が、突如掴まれた腕を激しく振り、抵抗を示したのだった。
初めて聞いた彼の声はえらくどすが利いていて、ぼくは思わず萎縮した。偶に父から飛んでくる叱責の声よりも、ずっと恐ろしく感じたのだ。
「へ!?い、いや、でも」
「いやもでももあるか、人の仕事を邪魔しやがって!」
「――仕事?」
「そうだ仕事だ!くそ、今日は発売日だってのに――というかお前はいつまで人の手を握っているつもりなんだ!?早く離せよグズ!」
「あっ!ご、ごめんよ!」
彼がぶんぶんと腕を振り続けていたのは、どうやら自力でぼくの手を振りほどけなかったかららしい。慌てて手を離すと、彼の手首はすっかり赤くなっていた。その途端に湧いてきたのは罪悪感で、先に彼に叱られたこともあり、自分がとんでもない間違いを犯してしまったようで気分は沈んでゆくばかりだった。
そんなぼくの眼前にずい、と現れたのは、彼の掌だった。青白い彼の手はしかし、ぼろぼろに荒れた指先とぼくの指の痕が残る手首だけが痛々しく赤かった。
「ん」
「こ、この手は一体、」
「有り金を出せ」
「お金だって!?」
手を引込めないままぼくの鼻先まで接近した彼は、目が覚めるような白皙の美少年だった。年はきっと同じくらい。あどけない作りの顔を悪ぶった表情に歪めてみせるのが大人っぽく、妙に様にもなっていて、思わず赤面をしてしまったものだった。小さな口から飛び出す言葉の過激さに、肝は冷えてゆくばかりであったのだが。
「そんな、お金だなんて」
「ぼくの仕事を駄目にしたのはお前じゃあないか」
「それはその、申し訳なく思うけれど――その、君の賃金を立て替えようにも、大した額は持っていないというか……」
「なんだって?」
恐る恐る差し出した財布を、彼はひったくるように受け取った。そしてその中身を検分すると、まさにがっくりといった様子で肩を落としたのだった。
「な、なんだよお前、本当にこんなはした金しか持っていないのか?こんなの、パンの1つも買えないじゃあないか……」
「本当にごめんよ。ちょっと、急な出費があったものだから……」
「出費?……その包みのことか?」
「ああ。なんとなく立ち寄ってみた本屋で、ぼくの住んでるあたりじゃ売っていない本を見つけたんだ。だから、つい……ええと、君には本当に申し訳ないことをしたと思ってるよ。家に帰ればいくらかは用意できると思うから、よければ連絡先を――」
「それでいい」
「へ?」
「ちょっと見せてみろ」
「わっ!?」
どん、と胸元に押し付けられたのは彼の掌と、すっからかんになってしまったぼくの財布だった。よろけた隙に、もう片方の彼の手がぼくの小脇へと向かってゆく。そこには逃走劇の間はすっかりその存在を忘れていた、買ったばかりの本が挟まっていた。
抵抗を試みる間もなく、無遠慮な彼の手がぼくの本を奪ってゆく。そして包みさえも破り捨ててしまった彼は、そこで初めて笑顔というものに、綺麗な顔をほころばせたのだった。
「ふぅん……まあ、古い本だが良しとしようか。運が良かったな、お前。この本がなければいくらふっかけられてたか分かったものじゃあないぜ」
「本が好きなのかい?」
「ああ、読書は好きだよ。すべてがぼくの糧になる」
金の髪が柔らかく宙に舞った。月の色をした金糸たちが太陽の光に照らされる光景はどこか倒錯的で、けれど一枚の絵のように、美しかった。
そうしてぼくに背を見せる彼に数十秒、見惚れた後に、はっと気が付いて慌ててぼくは彼を追った。大股で歩く彼の進行方向に何とかして回り込むと、ブルーの瞳は剣呑に細まり、ぼくを睨み上げたのだった。
「なんだよ。まだなにか用が?」
そこで少々怖気づくものの、ぼくにだって引けない理由というものがあった。本だ。それはぼくが買ったもので、まだ1ページたりとも捲っちゃいない。気分によっては彼に譲ることもあったのだろうが、あの時のぼくはなんというか、彼の横暴な振る舞いに知らず知らず苛立ちを溜めこんでいたようで、せめて本だけは取り返さねばと、酷くむきになってしまっていたのだ。
「返してほしい。お金なら、用意をするから」
「いいと言ってるだろ。踏み倒されちゃたまったものじゃない」
「そんな誠意のない真似はしないと約束するよ。なんならこのままぼくの家まで来てくれたっていい」
「名前も知らないやつの家になんか行けるものか」
「名前?それならいくらでも教えるさ。ぼくの名は――」
「ああ、いい、いい。そんなもの知りたくない。お前とそこまでの関わりを持とうと思ってない」
「じゃあどうすれば、君はその本を返してくれるんだい」
「そんなに好きなのかい、考古学。金になんかならない学問だぜ」
「そ――そうだ」

本当は、そこまで考古学というものに興味があるわけではなかった。
むしろその分野に興味があったのは亡くなった母だったようで、書斎に納められた関連の本や、ホールに飾ってある怪し気な仮面などは母が買い求めたものであるらしい。だからぼくにとっての考古学とは、顔も覚えていない母に触れるための手段の1つだったのだ。
彼に取られてしまった本だって、書斎や書店で見かけたことのない本だったから、思わず買ってしまったというだけのことである。家に持って帰ったところで、一通り流し見た後に母の本棚に片付け、それっきりになってしまうのだろう。
それならば、読書が好きらしい彼の手元に会った方が本も幸せなのかもしれない。しかしそれでも、このまま横暴な彼に持って行かれてしまうのは、悔しくてたまらなかったのだ。
虚勢を張るぼくを、彼は冷めた眼差しで見つめていた。この時には彼に憎たらしさすら覚えていたはずなのに、彼の酷薄な美貌はぼくの心臓を高鳴らせるばかりであった。さっきみたいに笑っていたら可愛いのに、とすら感じていたのかもしれない。そうした感情を抱いてしまうことすらも、悔しかった。

「なら、明日にでも金を用意してここに来い。時間は今頃でいい。お前がちゃんと金を用意出来たら、この本は返してやる」
「……本当に?」
「信じる信じないはお前の自由だ。ただ、明日だけだぞ。明後日になったら返してやらないんだからな」
「分かった、明日だね。必ず来るよ。ええと、いくら程用意すればいいのかな。そもそも君は何の仕事をしているんだ?相場が分からないことには――」
「商売だよ」
「へえ。何を売っているんだい?」
「ぼくの商品はぼくだけだ」
「え、あっ、わわっ!?」
唐突に、足元から重心がなくなった。視界が揺れてたたらを踏み、気付いた時には艶然と微笑む彼の顔が眼前まで迫っていた。吐息が混ざり合うような、今にもキスを交わせそうな――もう距離などは、あってないようなものである。この時ばかりは意識の全てが目の前の彼へと向かってしまっていて、妙な息苦しさの正体が胸倉を掴まれていることによるものだとは、全く気付いちゃいなかった。

「お前はぼくにいくらまでなら出せるんだ?お前が出せる、と思っただけの額を持ってきてくれればいい。あんまりにも少なかったらそれなりの目には合ってもらうがな」
「……もしかすると、君は……」
「珍しい話でもないだろう?」
「んっ……」
一瞬だけ、唇を掠めて行った柔らかい感触があった。それが生まれて初めて他人と交わすキスだったのだ、と気付いたのは、ぼくの胸倉を解放した彼が再びぼくに背を向けた後のことだった。

「な――なにをするんだ!!」

去りゆく背に絶叫する。最早悲鳴のようですらあるその声が女々しいと、自己嫌悪に浸る余裕すらもなかった。
ぼくは別に、女の子のように「キス」というものに甘い夢を抱いていたわけではなかったが、それでも彼の横暴には憤らずにはいられなかった。キスというものはこのような街中でなんの情緒もなく――おまけに名前も知らない他人同士が、軽々しく交わしていいものではないはずなのだ。

首だけで振り返った彼はにんまりと笑っていて、やっぱりそれまでに出会った誰よりも、美しかった。しかし挑発するように舌を出してみせる表情の、小憎らしさといったらなかった。

彼が去ってゆく前に、今度はぼくが彼に背を向けて走り出した。彼を連れての逃走の時などよりも、よっぽど速く走れていたような気がする。道中に合流できた友人たちは、はぐれてしまったことを詫びながらも、ぼくの快足をしきりに褒めそやしたのだった。

彼が思う以上の金額を用意して彼の腰を抜かしてやろうと、そんな企みに必死になっていたあの時のぼくには、美しくも小憎らしい彼に特別な感情を抱くことになる未来なんてものは全く見えていなかった。
きっと、興味自体はあの時既に抱いていたのだと思う。ぼくと同じような年頃なのに、ぼくとは全く違った生活をする彼について。低俗な好奇心のようなものを。
同情も、していた。自分というものを切り売りしなければ本の一冊も買えない彼が不憫なのだと。初めてそう思ったのは、彼を驚かせるためのお金を用意し終えた後の、その夜のベッドの中でのことだった。

(ぼくと同じような年頃の、こどもなのに。……あんなに綺麗なのに)

その顔が美しかったからこそ、彼はそうやって生きてゆく道を選んだのだろうか。あんなに綺麗な子を見たことはなかった。彼の美貌というものはなんというか、好意や愛情とはまた別のところで、人の心だったり欲望だったりを惹きつけるものではないのかと、物知らずなりにもそう感じたのだ。だから彼がはっきり口にしなかった彼の仕事というものを、瞬間的に理解できたのかもしれない。ああ、なんとなく分かるぞと。

――考えれば考えるほど、彼が不憫に思えて仕方がなかった。あの街には彼を庇護してくれる大人などいなかったのだ。

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