スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

back

チャプターセレクト:1999

「…………」
空条承太郎の拠点である杜王グランドホテルの一室にて、東方仗助は前々から気になって仕方がなかった『ある存在』の前に立ち、ごくりと生唾を飲み込んだ。真昼にも拘らずきっちりと引かれたカーテンの圧迫感が、仗助の緊張だとか焦燥感だとかをこれでもかと煽ってゆく。耳元まで競り上がる心臓の可動音は酷く姦しい。
「……」
『それ』との距離を一歩縮めるごとに仗助は出入り口を振り返り、電話を片手に出て行った承太郎がまだ帰ってこないことを確認する。そのたびに「自分はやましいことをしているつもりはないのだ」とかぶりを振るも、背筋の辺りにべったりと張り付いた如何ともしがたい後ろめたさは仗助に冷や汗を噴出させ続けるのだ。

――『それ』。
承太郎が日々寝起きをしているのだろうベッドの上に、でんと乗っかった布団の塊――どう見たって、中に人1人が包まっている大きさの。仗助が初めてこの部屋を訪れたひと月半ほど前からいつだって、当たり前のようにベッドを占領している明らかに不審な『それ』――

仗助は、ひと月半もの間その不信物体をただ眺めていたわけではない。なにやらただならぬ気配を感じながらも一度だけ、好奇心には抗えず承太郎に尋ねたことがあった。一体あれは何なのかと。いざ言葉にしてみれば、得体の知れない物体が当たり前に存在している現実の奇怪を突き付けられた気分になって、その瞬間も仗助は冷や汗を浮かべながら生唾を呑んだものである。
机の上に積み上がった資料の山をがさがさと切り崩していた承太郎は、ぴたりと動作を止めて仗助を見た。どこまでも静かで威圧感すら滲ませる承太郎の視線は、決して長くはない付き合いの中でも既に見慣れたものである。つまり、いざ『それ』に触れられた瞬間にも承太郎に動揺はなかったのだ。それがまた妙に冷えた空気を誘って、仗助は再びごくりと唾を飲んだ。それからたっぷり10秒ばかり。物も言わずにじっと仗助の様子を眺めた承太郎は、不意にふっと、小さく笑んだ。そして、

『それは――まあ、あれだ、あれ、ああ、あれだな』

ちっとも答えになってはいない返答を寄越し、再び仗助を置き去りに資料探索の道程へと旅立っていったのだった。
――あれってなんだ、あれって、あれ。
瞬時に仗助は「これはどう問い詰めようが満足がいく答えなんて返ってこないぞ」ということを察し、以来、ベッドの上の物体には触れないようにしている。しかし『それ』の正体へ抱く好奇心、ある意味での怖いもの見たさは、日々止まるところを知らないのである。

「…………」

なにも仗助は好き好んで人のプライベートにずけずけと入り込んでいく性質ではなく、承太郎が下手な誤魔化し文句で『それ』についてを隠そうとするのなら、自分だって知らないふりをするべきだと思うのだ。しかし、衝動だった、出来心だった。電話を片手にした承太郎が慌てた様子で去っていった、どこかほの暗さの漂う部屋にて、仗助が1人と『それ』が1つ。他に誰がいるわけでもなく、誰が仗助を咎めるわけでもない。なので――今をおいてはもう2度と、『それ』の正体を知ることができなくなるのでは、と。一旦そう思えばよこしまな衝動は膨れ上がってゆくばかりで、仗助は見えない何かに操られるかのように、ふらふらとベッドサイドに立ったのだ。
もう一度出入り口を確認した後に、仗助は『それ』を包む柔らかな羽毛布団に手を掛けた。すう、と息を吸えば、肺に冷たい空気が満ちてゆく。こめかみからは、じとりとした冷や汗が流れて行った。
あとは、捲るだけ。――捲るだけ。
唾液を嚥下する音は一段と大袈裟なものになる。心臓などは、今にも爆発せんがばかりに高鳴っていた。辛い、辛い、息苦しい。『承太郎の秘密を暴こうとしてる』という罪悪感、そして反面『こうも堂々と晒されたものの何が秘密であるものか――本当に隠したいならもっと厳重に隠しておくべきだ』と、半ば責任転嫁である感情がせめぎ合い、仗助の精神は圧迫されてゆく一方だ。
そのすべてから逃れるように、振り切るように――仗助は一息に、細かな埃を巻き上げながら布団を捲り上げた。

「――!!!?」

ばさり。
一旦は吹き飛ばされるように捲り上げられた布団は再び、同じだけの激しい勢いでベッドの上に戻ってゆく。シーツの上に転がる『それ』の姿を視認したその瞬間、仗助は思考するより早く布団をかけ直したのである。
2秒間、心臓の鼓動はまったく止まってしまったかのように静まり返り、一呼吸を終えた後には、布団を捲り上げる直前よりもずっと激しい勢いでとととととととと激しい動悸が始まった。
なんだあれは。一体あれは何なのだ。
仗助の目に『それ』の姿が移ったのは、1秒にも満たない一瞬ばかりのことである。なのに網膜に強烈に焼き付いたその情景が、仗助を混迷の淵へと追い落としに掛かってくる。

――『それ』。
いつだってふかふかの羽毛布団に包まって、承太郎のベッドを占領している『それ』――『その人』。

外から見た様子で仗助が予測をしていた通り、そこには確かに人の形をした生き物がいた。透き通るような白い肌と、張りのある筋肉に覆われた長い手足。編み込まれた月光の如くの眩い金髪に、目鼻口のパーツそれぞれが一等に映える場所にぱちりとはめ込まれた端正な面立ち――まるで美術品だ、という言葉だけでは称え尽くせないほどの、冗談のように煌びやかな麗人が、ふかふかとした布団の中にいた。
衝撃的な光景に腰を抜かしかける仗助を余所に、今なお布団の中の麗人は薄いシャツ一枚を羽織っただけのあられもない姿ですうすうと寝息を立ている。布団とシーツのわずかな隙間から漏れる寝息はどこまでも穏やかだ。
「……うわー……」
どこへ向けたのかも分からない嘆息を漏らしながら、一先ず仗助は頭を抱えた。もし本当に『そこ』に人間がいたのなら気まずい思いをすることになる、とは分かってはいたものの、仗助の一連の行動は徹頭徹尾衝動的なものであって、その後のことにまでは考えが及んでいなかったのだ。そこから出てきたのが滅多にお目に掛かれない美人――それも女であったならまだ、ああ承太郎さんの――と一応の納得はできたのかもしれないが、『それ』は一瞬見ただけでも分かるほどにどうしようもなく男であったので、もう仗助はどういうリアクションを取るのが一番であるのかが分からない。完成された白い肉体の逞しさは、承太郎に引けを取らないレベルである。
「…………、(いいや――)」
――そもそも規格外に男性的な逞しい肉体をぶら下げているくせに、顔だけは男だ女だということがどうでもよくなる程に美しい人間などは、果たしてこの世に存在するのだろうか?もしかすると自分は、幻でも見ていたのではないだろうか?ここまで秘密を引っ張られたのだから、余程奇抜なものが出てこないと満足はできないと勝手な期待に昂った自分が、妙も奇妙な幻を見たのでは――?
「…………」
仗助はもう何度目かは分からない生唾を呑みながら、再び布団の端に手を掛けた。今度は出入り口を確認する余裕もない。とにかく彼は、一瞬だけ目撃した『それ』の正体に脳の一部を焼かれたかのように、すっかり混乱をしてしまっているのだ。
息を吸う。指先に力を込める。そして――今度はそっと、ゆっくりと。中の『それ』が目覚めないようにと無意識に気を払いながら、布団を捲り上げた。

「……」
「…………」
「…………ぐ……グレートぉ……」
昏々と眠る金髪の麗人。現実世界に存在する承太郎の隠しもの。改めて『それ』と対面し、仗助はぽつりとその一言だけを零したのだった。

その瞬間である。

「――うおおっ!!?」
突如、仗助の体が傾いた。抵抗の余地すら挟ませぬ素早さで首回りに巻き付いた何者かが、暴虐的なまでの力で彼をベッドに引きずり込もうとしているのだ。咄嗟に仗助はシーツに両手を突っ張って、なんとか鼻先からベッドに倒れ込むことは免れる。しかし中途半端に上半身は浮いたまま、首からぶら下がる重量に筋肉は軋みを上げていて――そして、なによりも。

「……ん?承太郎ではない?」

仗助の首に絡ませた両腕をくい、と引き、至近距離まで顔を接近させてくる寝ぼけ眼の麗人が。未だ、仗助が混乱の沼から抜け出すことを許してはくれないのだった。
「……」
「…………」
「……あ……あのぉ?」
「うむ?」
勇気を振り絞って声を掛ける。金髪の男はいまいち焦点があっていないような目で仗助を見上げながら、怠惰にこくりと首を傾げた。
「あんたは、ええと。承太郎さんの」
「承太郎?……承太郎?誰だそれは?」
「は?」
「変な名前だな。やたら角ばっていて、仰々しい。承太郎。承太郎。ふふ、ふふふ、じょーたろー、おかしな名前だ」
にやにやと笑いながら、男は承太郎の名前を繰り返す。メイプルシロップに角砂糖を溶かしこんだかのような、甘ったるい声音である。仗助の喉は無意識にごくりと蠢き、頬にはじんわりと熱の色が広がった。男相手になにやらふしだらな欲を催しかけた己を誤魔化すべく、仗助はふるふると頭を振った。
「いや、あんたが開口一番呼んだんでしょーが。承太郎ではない、とか言って」
「……?わたしが?言ったか、そんなこと?」
「言いましたっ!ほんの、20秒ばかし昔に!」
「うぅむ」
男は笑顔を引込めて、眉を顰めながらあさっての方向を向いた。そして綺麗に爪が整えられた指先を、そっと持ち上げる。恐らく当初の予定では、顎に添えようとしていたのだろう。しかし、どこか遠くを見ていた視線を真正面に――目の前にいる仗助へと移した瞬間、男の赤い瞳はスイッチの入ったランプのようにぱっと輝いて、そして。

「――牛のクソのような頭だ!!」

中空に浮いた指先で、わしゃわしゃと、それはもうもいでしまわんがばかりにわっしゃりと、本日も寸分の崩れなくセットされた仗助のリーゼントを鷲掴んだのだ。
瞬間、承太郎の秘密を暴く緊張感や背徳感、そしてその正体であった男へのちょっとばかりのときめきで氾濫しかかっていた仗助の内心が、嘘のように静まり返る。男はあまりにも豪快に、決して踏み抜いてはいけない地雷を踏み抜いてしまった。仗助の顔からは表情が失われ、背後にはスタンドのビジョンが揺らめいた。男の顔面がぶち抜かれるまでの残り時間は5秒である。そんな、明らかに変質したただならぬ空気も素知らぬ顔で男は笑い、

「しかしこのDIO、この手のセンスは中々どうして嫌いではない。うむ、様になっているではないか、小僧」

掴んだリーゼントをふにふにと揉みしだいたのだった。
「そ――そりゃあ、どうもっ」
気恥ずかしさと複雑な心境が巨大な塊となって競り上がり、思わず仗助は力ずくで男の腕を振り払う。男は再び仗助をホールドするでもなく、柔らかなベッドに背中から沈む。ぼんやりと天井を見つめる顔には薄ら笑いが張り付いていて、どうにも上機嫌であるようだ。
「ええと、あの――DIO、さん?」
「……ん?誰だそれは」
「……あんたさっき自分で言いましたよね?このDIO、とかなんとか。名前じゃあないんすか」
「……?よく分からん、覚えていない。しかしまあ、わたしがそう言ったというのならそうなのだろうな。このDIO、このDIO、ふふふ。これも中々、悪くはない響きではないか」
「…………」
だめだ、細かいことを気にしていたら話にならない。
諸々の匙を投げ、仗助はベッドの上で胡坐をかいた。そしてそれとなく男――DIO(仮)に布団をかけ直してやる。ボタンも留めていないシャツ1枚だけを身に着けたDIOの姿は、あまりに扇情的が過ぎるのだ。
「ずっと、いましたよね。ここ。2ヶ月近くずっと」
「ずっと?」
「……もしかしてあんた、すげぇ忘れっぽい?」
「かもしれんな。目覚める前のことは、よく覚えていない」
布団を蹴り上げるように、白い脚が飛び出した。仗助はやはりそれとなく乱れた布団を直してやりながら、咳払いをする。
「あー、そうだ。カーテン開けましょ、カーテン。あんたも起きたことですし。あんまり暗いと気も滅入っちゃいますからね」
「カーテン?」
「分かります?カーテン。あの窓んところの布」
「このDIOを馬鹿にするな、カーテンくらい知っているし覚えている。ただ……うぅむ……」
「どしたんすか。頭でも痛い?」
軽く問いかけてはみたものの、DIOからの返答はない。難しい顔をして、布団の中でゴロゴロと寝返りを打っている。DIOのそんな様子を横目で伺いつつ、仗助は一旦ベッドから降りた。そして数歩離れた窓際へ向かい、カーテンに手を掛ける。どこか雑然とした部屋の様子からは浮いて見えてしまう程、いつだってこの部屋のカーテンは神経質なまでにぴっちりと引かれていた。なので自分の手でそれを開くということには、いくらかの躊躇を覚えないでもない。それでも仗助は、とにかく得体の知れない麗人との間にある気まずさを払拭するためにも、夕方間近の麗らかな日光をこの一室へと取り込みたかったのだ。
DIOの布団を剥いだときほどではないにしろ、少々の緊張感を胸に仗助はそっとカーテンの端を持ち上げた。あとはざっと横へ向かって引くだけである――という瞬間に、背後からにゅっと伸びてきた白い掌が、仗助の手首を掴み上げる。肩越しに振り返れば、ベッドの上から上半身を目いっぱいに伸ばして仗助の手を引くDIOがいる。
「ええと、DIOさん?」
「開けるなと言っていた。承太郎が」
「カーテンを?」
「ああ。何があっても開けるなよと。あいつが出掛けに、そう言っていたような記憶がある。それにわたしも何か――嫌な予感がする。そこを開けるとなにか、とんでもないことが起こるのではないのかと。だから小僧、さっさとそこから手を引くのだ。大人しくこちらへ来れば褒美にキスをくれてやろう。デコの辺りにでも」
「いやいらねーっすよそんなもん!」
慌ててDIOの手を振り払い、仗助はすっかりベッドの外へと弾き出されてしまっていた布団を拾い上げた。
「ほら、ちゃんと布団被る!でなけりゃちゃんと服を着る!せーしょーねんにはとんでもねぇ目の毒なんですよ、あんた!」
「む?おお、パンツ履いてないなわたし」
「そこからか!んなことも忘れてたんすかあんたって人は!」
「いや――もしかするとわたしには初めから、パンツを履く習慣というものがなかったのかもしれない」
「どうでもいい!!」
仗助は厚い布団ででDIOを包み込んでしまおうと試みるも、DIOはといえば被せた先から豪快に跳ね除けて、やはりその白い裸体を惜しげなく蛍光灯の下に晒している。全くの裸というわけではなく、適当なシャツを適当に羽織っただけ、という姿から漂うどうしようもない生活感が、健全な青少年である仗助に不健全な衝動の種を植え付けてゆくのだ。そうした工房を5度ほど繰り返したのちに、仗助は布団をかぶせることを諦めて、椅子の背に掛けられていたコート、恐らく承太郎のものであるそれをDIOの胸元に押し付けた。DIOは不思議そうに仗助とコートを見比べたのち、ばさりと音を立てながら肩から羽織り、ボタンを2つばかりを留めた。これでいいのか、と言わんばかりに仗助を見上げた端正な顔は、挑発的ないやらしい笑顔が張り付いている。仗助は慌てて目を反らし、ベッドと反対方向に設置されているソファーへ腰を下ろした。
「むらっときたのだろう?ふふふ、若いな小僧」
「うっさいです、ったく」
「何をふて腐れることがある。承太郎という男にだって、そうしたどうしようもなく青臭い時期もあったのだ。今はまあ、いっちょ前の大人の顔をして社会に溶け込んでいるらしいのだが。わたしから見れば、子供が背伸びをして大人ぶっているようにしか見えん」
「はぁ。承太郎さんが、ねぇ」
いまいち想像ができなかったので、感想は保留にする。仗助の目から見た承太郎という男とは、この男が小馬鹿にするような背伸びをする子供などでは決してなく、立派に社会と渡り合っている大人の男なのである。
「それにしても――」
「……なんだよ、人の頭じろじろ見て」
「ふっふふふ!いかすな小僧!まるで牛のクソのような頭だ!」
「……さっきも言ってたような気がするんですけどもォー」
「む?そうだったか?」
仗助はぞんざいに脚を組んだ。貶されているわけではないと分かっていても、決して気持ちの良い褒められ方ではない。
「つーか、承太郎さん。承太郎さん」
「承太郎がどうかしたのか」
「さっきなんか承太郎って?みたいなこと言ってましたけど、やっぱり知ってるんじゃあないですか。一体なんなんすか、あんたら。お友達っていう風には、見えないんですけどねェ」
「承太郎。……承太郎」
「DIOさん?」
か細い声で承太郎の名を呟きながら、DIOは立てた膝の間に顔を埋めた。そして沈黙である。微動だにしない。少々様子を伺ったのちに、仗助は恐る恐るベッドの傍まで近寄った。そしていくばか近くなった距離からDIOの動向を見守るも、金の頭が持ち上がる気配はない。代わりにコートの裾から這い出た白い手が、ぽんぽんとベッドの縁を叩いている。どうやらそこに座れということらしい。思い切って仗助が腰を下ろしてみれば、DIOはほんの少しだけ首を傾け、じとりと湿った赤い目で仗助を見る。仗助の喉が、こくりと鳴った。
「おかしなものだな。わたしにはそいつこそがわたしの世界そのものであると心に定めた存在がいたことを知っている、どうやらその男は承太郎という名前であるらしい、体格の良い男だ、クソ生意気に落ち着き払った男だ、しかし人並みに精神をすり減らすこともあって、そうした時にはわたしに縋りつく可愛げがあることも知っている――」
「……あー……やっぱりDIOさんて、承太郎さんの」
「……?わたしが承太郎の、なんだというのだ?」
「いや――いいや、なんでもないっす。続きどうぞ、聞きますよ」
「目上の者の話の腰は折るものではないぞ、小僧」
「あ、頭触んなっ」
「よかろう別に。わたしは案外嫌いではないぞ、これ。貶しているわけでないのだから、少しくらい触らせろ」
「崩れちまうんですよ、んなわしゃわしゃやられたら!セットにどんだけ時間かかると思ってんですか!」
「このDIOが、知ったことか。ふふふふふ」
言葉とは裏腹に、白い手は未練も残さず引っ込んでゆく。そして仗助の髪を弄んだのと同じ指できゅっと、承太郎のコートの端を握るのだ。あまりに切実さの滲む仕草に、仗助は見てはいけないものを見てしまった気分になる。ぎこちなく目を反らせば、裾がめくれて剥きだしになった白い脚が目に入る。そっちもまた、別の意味で見てはいけないものであるように思う。結局仗助はDIOのつむじを注視しながら、静かな声に耳を傾けた。
「――分かっては、いるのだがなぁ。承太郎という男がいるということ、その男は今のわたしにとっての唯一であるらしいこと。しかし、容赦なく忘れてゆく。わたしの頭はどうやら、あまり長く記憶を保存しておくことができないらしいのだ。もう覚えてはいないが、きっとわたしは何百回も承太郎に名を尋ねてきたのだろうな。そのたびにあれはどう答えてきたのだろう。それも覚えていない。一番近くで見ていたのは、きっとわたしだ。なのに――ああ、ままならん。歯がゆい。そう思ってしまうことも不愉快だ。あまりに感傷的が過ぎる。こんなものは、全くちっとも『わたし』ではない」
「……記憶が」
「ふふ、30分も経てばきっと忘れるぞ。貴様にこのような、下らない惰弱を漏らしたことなどは。だからこそ、吐き出せるものであるのだが」
不意に傾いたDIOの体が、横向きにシーツの海へと沈んでゆく。
「俺で、よかったんですか。そういうこと話す相手。本当は承太郎さんに聞いてもらいたいんじゃあ」
「馬鹿なことを!あれはだな小僧、わたしとのやり取りならば、どんな些細なことでも後生大事に覚えている男であるのだぞ。わたしがこのような感傷を吐き出したことなどは、今この時間だけの出来事であるべきなのだ。わたしはすぐに、忘れるだろう。貴様だって、明日になれば忘れるさ。青春を駆けずり回る小僧とは、得てして脳の足りん馬鹿な生き物だ」
DIOが寝返りを打つたびシーツは波打ち、スプリングは小さく軋む。コートの裾は広がってゆく一方で、最早両足どころか下腹部までが丸出しである。その辺りで仗助はDIOから視線を引き剥がし、シーツに後ろ手を付いて天井を見上げた。スプリングが弾む微かな振動は絶えず続いている。大きな子供のようだ、と仗助は思った。
「なんつーか。よっぽど大切なんすね、承太郎さんのこと」
「……」
「いてっ」
「知った顔でわたしを語るな」
DIOの踵が仗助の背中にめり込んで、体勢が前のめる。
「まったく、承太郎によく似た小僧だな。貴様たちは遠慮というものを知らん」
「世界そのものと心に定めだーだとかなんとか、んな仰々しい告白滅多に出てきませんよ」
「そうとしか表現できないのだから仕方あるまい。好きだとか愛しているだとか、そういう言葉ではちっとも足りやしない」
「グレート。お熱いことで、ってぇ!」
同じ箇所への踵蹴りである。さすがにやりすぎだ、と抗議をするべく仗助は振り返る。しかしそこにいたDIO、気だるく上半身を起こしたその男の顔に張り付いた、あまりにも不機嫌な表情――怒髪天の一歩前ですらあるかのような表情が、仗助の胸に湧いたごくごく真っ当な抗議文句を腹の奥底にまで沈めてしまったのだった。そこで『俺が遠慮もクソもなくずけずけと分かったことを言ってしまったのが悪かったのかもしれない』と自省をしてみる辺りが、仗助という青年の人の良さである。
「まぁ――まあ、あれですよ」
仗助はへらりとDIOに笑いかける。取り繕うような笑顔はどこか強張ったものだった。
「記憶があんまりもたねぇってのに、承太郎さんが自分の世界そのものだって言えるほどの気持ちがあるんなら、あんたきっと大丈夫です。そう気に病まなくなって、承太郎さんはあんたを見捨てやしませんよ。でけー人ですから、あの人」
「……わたしが、このDIOが、承太郎に捨てられることを恐れているだって?」
「へっ?え、あれ、違いました?」
「またそうやって貴様は、勝手な解釈を!この牛のクソ!」
「クソ言うなしまいにゃ殴るぞ!」
前傾姿勢になったDIOがぼすん、と埃を巻き上げながらシーツに両手を突き、仗助も応戦するように向かい合う。拳1つ分程の距離にまで接近した美貌に圧倒されかけながら、それでも仗助は眉間の辺りに力を入れ、彼なりの精一杯でDIOを睨みつけるのだ。
「……そうなのかもしれない」
小さな子供ならば泣き出してしまいそうな迫力の仗助の顰め面を目の前に、DIOは怯む様子もなくぽつりと呟いた。そんなDIOだって、仗助に引けを取らない恐ろしく不機嫌な表情を浮かべている。
「不安だったのかもしれない」
「え、ああ……案外素直っすね」
「どうせ忘れるから言えるのだ。貴様もちゃんと忘れろ」
この10数分の出来事は、そう簡単に忘れられるものではない。素直な気持ちを飲み込んで、仗助は静かに頷いた。
「大丈夫だと言ったな、貴様。本当にそう思うのか」
「俺はそう思いますけど。あんたの方が、承太郎さんがどんな人だってことを知ってるんでしょうに」
「分からない。覚えていない。ただわたしにはあれが必要だということだけを、強く、強く覚えている」
「あ……ああその、ええと……スミマセン」
「素直なガキだな」
強張っていたDIOの顔が、ふっと呆れたような笑みに緩む。目と鼻の先で展開された麗人の笑顔に、仗助は思わず赤面した。
「もしわたしが路頭に彷徨う羽目になった際には、いの一番に貴様の髪を毟ってやる。覚えておくのだぞ」
「……忘れろって言ったと思えば、覚えとけって言ってみたり、なんつー忙しい人ですか」
「そんなこと言ったか?記憶にないな」
「そういうガチが嘘か分からんことは言わねーでくださいよ、ったく」
軽やかな笑みで空気を揺らしながら、DIOが仗助から離れてゆく。そして再び、電池が切れた人形のようにぱたりとシーツに転がった。相変わらず裾は肌蹴ていて、脚は丸出しである。すっと細まった両目は楽しげな色を湛えながら、じっと仗助を見つめていた。
何を言ってくるわけでもない。仗助にしたって、特別話したいことがあるわけでもない。なので見つめ合ったままに、沈黙である。承太郎が大切にしているらしき男の、このあまりにもあられもない姿をいつまでも見ていてはいけないとは思うのだが、それでも静かな視線のやり取りと沈黙には不思議な心地の良さがあって、仗助の身動きをすっかり封じ込めてしまっている。
そのまま、現実の世界では2分弱。仗助の体内時計では1時間ほど。それだけの時間を経た後に、沈黙を破ったのはDIOだった。
「ところで――貴様は?」
「ああ、まだ名乗ってませんでしたっけ。俺は、」
「牛のクソのような頭だ」
「……案外嫌いじゃあないでしょ、このセンス」
「ん、よく分かったな。ところで貴様、いつからここにいる?今の今まで眠っていたものだから、いまいちよく、覚えていない」
「――、」
切なさを伴った寂しさが、辻斬りのように仗助の胸を刺してゆく。DIOは尚もうっすらと笑んだまま、仗助の返答を待っているようだ。
「俺は」
諸々の感傷を飲み下し、仗助はDIOへと笑いかける。赤い瞳に映った青年の顔は、ぎこちない。
「東方仗助です。承太郎さんの、親戚」
「承太郎?知っている名前だ」
「あんたの世界なんでしょ」
「ふぅむ、ふふ、世界ときたか、このわたしの」
金の睫毛に彩られた瞼が、とろとろと落ちてゆく。じわりと滲んだ涙の由来は、恐らくかみ殺した欠伸である。そうとは分かっていても、この男は泣いているのだ、と仗助は思った。欠落を抱えた麗人の零す涙が、ただ、ただ、哀れに思えてならなかった。
「眠いんなら寝ちまえばどうですか。丁度ベッドの上にいるんだし」
「うむ……そうだな、そうする。小僧、布団」
「はいはい」
拾い上げた布団で、仗助はDIOを包み込む。ふかふかとした羽毛布団は徐々に丸々と丸まってゆき、最終的には巨大な大福のような形となる。このひと月半、仗助をひたすらに煩悶させた『それ』の姿である。
「じょうすけ」
厚い布団の内側から、くぐもった声が仗助の名を呼び付ける。

「きっと、今日この日にわたしと貴様がここにいた、ということには何某かの意味があったのだと思う。ではな、おやすみ。わたしがなにかおかしなことを言っていたのだとしたら、ちゃんと忘れておくのだぞ」
「――はいはい、りょーかいです。おやすみ、DIOさん」

だから――あんたは見た目も言動も一々強烈過ぎて、そう簡単には忘れられそうにないのだというのに。
再度込み上げる本音を飲み込んで、仗助はソファーに腰を落ち着ける。承太郎が帰ってきたのはそれから5分ほど後のことだった。コートを見かけなかったか、と問いかける承太郎に、仗助は忘れちまいました、と返答する。冗談めかしているようでいて、なのに夏の日が過ぎ去ってしまったかのような切なさの滲む仗助の笑顔に、承太郎は首を傾げた。





back

since 2013/02/18