スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

back

吸血鬼@寝ていない

物心がついた時から家には吸血鬼がいる。
あいつと初めて顔を合わせたのは、俺が小学校の中学年だった頃だろうか。売れないミュージシャンだった父親が世界中を飛び回る売れっ子になり、家にあまり顔を出さなくなったのと似たような頃合いだ。すっかり仕事人間として覚醒してしまった父親と入れ替わるように、あいつは空条の家に現れた。梅雨の日の午後8時。インターホンに呼ばれ、門を開けに行ったのは俺だった。こんな大雨の日に迷惑な。玄関から門までの道中は、結構な勢いで苛ついていたような記憶がある。

『寒い。おい、早く中に入れろ、小僧』

門を開けた瞬間、開口一番にそんなことを言われて苛立ちの量がぐぅんと増したこと。さっさと俺を追い越して玄関へと向かってゆく腕を捕まえれば、あいつがとても億劫そうに振り返ったこと。藍色の傘の下から現れたあいつの顔を、馬鹿みたいに綺麗だ、と思ったこと――目の下にうっすらと浮いた隈さえも、化け物じみた美貌の彩りでしかなかったこと。この辺のことは、未だにほんの昨日体験したことのように覚えている。


「承太郎。花火するぞ、承太郎よ」
「……なんだその格好」
「これか?ホリィが仕立ててくれたのだ。似合うだろう?」
どや!と言わんばかりの顔をしたDIOがばっと両腕を広げると同時に、夏の湿った空気の中を赤い金魚がふわりと舞った。浴衣である。紺地の上に蓮の花が咲き、赤い金魚がそこかしこで泳いでいる。そんな風流ぶった格好をしたDIOが、片手には花火セット、もう片方には氷水の中に缶ビールをしこたま突っ込んだバケツを携え俺の目の前に立ちはだかり、くいと縁側へと顎をしゃくってみせた。
「浮かれてんじゃあねぇよ」
「浮かれてなどいない。暇なのだ。付き合え、承太郎。どうせお前も、暇なのだろ」
「暇だからって花火してはしゃぎてぇわけでもねぇ。大体、そんなもんで喜ぶような年でもない」
「ほんの数年前までは爆竹を投げ合って遊んだ仲ではないか。承太郎と、このDIOは」
「いつの話してやがるんだ」
口を尖らせたDIOが背を翻し、ずんずんと縁側目指して進んでゆく。承太郎は必ず自分を追いかけてくるのだろう、ということをちっとも疑っちゃあいない、どうしようもない傲慢の滲む後姿である。やれやれだぜ。思わず呟けば、DIOは肩越しに振りかえる。にんまりとした笑顔にすら性根の悪さを隠しきれないくせ、こいつは何年経とうとも馬鹿みたいに綺麗なままで、目の下にはやっぱり隈が浮いている。
「祭で下駄の――ええと、紐のような部分を切ってしまった承太郎を、背負って家まで担いで帰ってやったこともあった」
「鼻緒な。ありゃてめーのせいだ。お前が迷子なんぞになりやがるから、人込みかき分けて探し回る羽目になっちまった。その最中に切れたんだぜ。ずっと走ってたもんだから」
「む?迷子になったのはお前だろう?」
「てめーだよ。俺が12歳とか、その辺の頃の話だろ。なら間違いなく、迷子になったのはてめーだった」
「そう、お前がまだわたしの腹ほどまでしか背丈がない、ちんちくりんだった頃のことだ。うむ、うん、覚えているぞ。わたしはちゃんと言ったはずなのだが。あっちの神社の裏からは花火が綺麗に見えるとホリィが言っていたから、このDIOが連れて行ってやろうではないかと。なのにお前は、ちゃんとわたしについてこなかった」
そんなことを聞いた覚えはない――と言いかけた瞬間、ふと頭を過ったある予感に舌は縺れ、声は喉の奥へと帰っていった。DIO曰くちんちくりんだった頃の俺と、今と全く変わらないDIOが一度だけ、一緒に出掛けた夏祭り。あまりの人込みに辟易したらしいDIOは、あれ以来一度も「祭りに行くぞ、祭り!リンゴ飴なるものを食べるのだ!」と言って俺の腕を引くことはなかった。
一回きりの記憶が蘇る。人込みの中、淡い橙色の明かりに照らされたDIOの横顔は、やはり馬鹿みたいに綺麗だったのだ。普段とは違う場所で見るDIOの顔がやたらに新鮮だったことを覚えている――見惚れてしまっていたことを、思い出す。きっとDIOは本当に、神社がどうとか言っていたのだろう。俺は、聞き逃していただけだ。うっすらを汗をかき紅潮した、楽しげな横顔ばかりを見ていたものだから。
「……だからって自分だけ先に行くか、普通」
マグマのように吹き出す居た堪れなさを飲み下し、DIOの手からビール入りのバケツを奪い取る。そして縁側までの道のりを先行すれば、DIOはペタペタと足音を鳴らしながらふふふと微笑み、後ろから俺の顔を覗きこんだのだった。
「なんだ、浮かれているのはお前じゃあないか。図体ばかりでかくなっても、まだまだ子供だな、承太郎」
人の気も知らねぇで。

父親と入れ替わるように現れたからといって、到底DIOは父親代わりだと思えるような男ではなかった。年の離れた兄弟だ、というのもまた違っていたように思う。DIOはただDIOだった。目を擦る俺を連れては夜の街を歩き回り、コンビに入ればアイスを買えとねだり倒し、昨日まで承太郎、承太郎、と俺の後を付いて回っていたかと思えば、次の日にはふらりとアメリカへ渡っている。そしてそう言えば最近顔を見てないな、と思うような頃合いを見計らったように縁側から俺の部屋に侵入し、ただいま承太郎、私が居なくてさぞ寂しかったことだろう承太郎、と隈の浮いた目元をにんまりと細めるのだった。
面倒くさい吸血鬼。こんな、我儘な子供がそのままでかくなってしまった大人がいるものか、とは何度も思ったことであるが、反面時たま静かに空を見上げる両目には重苦しい『時間』というものの影がちらついているように見えてならず、なんというかこいつは『こういう男なのだ』と形容する言葉がいまいち見つからない、難しい奴である。
家族なのだ、と感じたことはない。友情を感じるには、あまりに年が離れすぎていた。つまり俺とDIOの関係はあまりに宙ぶらりんなものであって、落ち着きをみせぬまま10年弱の時間を共に過ごしている。曖昧な関係ではあるものの、DIOはこれからも俺の人生に居座り続けるのだろう、俺があいつの年に追いつく頃になっても当たり前のように傍にいて、他愛もない日常を共に過ごしてゆくのだろう――という確信だけは、しているのだが。

「んンんん~?なになに、人に向けてはいけません?何と戯けた注意書きであることだろう!チャンバラをするための手持ち花火であるというのにな、承太郎よ!」

ろくでもない奴である。しかしこのどうしようもないろくでもなさが、案外俺は、嫌いではない。だからこの先この男と何10年と付き合う羽目になるのも、それなりに悪くはないとは思っている。

足元ではぱちぱちと音を立てながら線香花火が弾け、どこか遠くではコオロギが鳴いている。ついさっきまで手持ち花火を振り回してははしゃいでいた筈のDIOは、踏石の前にしゃがみ込み、静かに線香花火を燃やしていた。俺に背を向けている。顔が見えない。あいつに付き合ってやるのにも飽き、縁側で温いビールを呷る俺からは。赤い飾り紐に結い上げられた金髪の下から覗く、生々しく白いうなじが、ぼんやりと薄闇の中に浮かんでいる。
「おい、お前飲まねーのか、ビール。お前が持ってきたもんだろう」
縁側、俺の隣にずらりと並んでいるビールを消化して欲しいという気持ちは本当である。元はビールがしこたま詰め込まれていた氷水のバケツは、今やすっかり燃え尽きた花火の墓場と化している。どうにもあのバケツというものは、お袋がDIOに花火の始末用として渡したものだったらしい。それをあの馬鹿は勝手に氷とビールを入れ、わたし賢い!これなら外でもきんきんに冷えたビールが飲めるではないか!といった具合で浮かれていたのだそうだ。
だから、ビール、ビールである。持ってきたからにはこいつが責任を持って、飲むなり片付けるなりするべきだ、と思う――というのは、建前だ。話題はビールでなくても、例えばこんなちゃちいのじゃあなくて打ち上げ花火なんてのも売ってるんだぜ、てめー知らなかったろう、とかそういうことでもよかったのだ。不安だったのである。こんなに近くにいるのに承太郎、承太郎、と煩くないDIOも、線香花火なんて趣味に合わないであろうものに夢中になっているDIOも、白い、病的に白いうなじも、初めて見るものだったものだから――これは本当にDIOであるのだろうかと。声を掛け、確かめずにはいられなかったのだ。
「うぅむ、そうだなぁ」
「いい加減、そんなもんにも飽きたろう。月でも見ながら飲むもん飲んで、さっさと中入ろうぜ」
「わたしはまだ、飽きてなどいないのだが。勝手に決めつけるな、承太郎め」
「んな夢中になるようなもんかよ」
「なにせ、初めてだ」
「そうなのか?」
「空に打ち上げる、でかい花火は見たことがあるのだがな。ああ、ほら、いつぞやお前と見たあれだ。迷子の承太郎と」
居た堪れなさを、温いアルコールと共に飲み込んだ。
「詳しいことは知らないが、お前、相当な長生きをしてるんだろう」
「ああ、そうだな。承太郎7人分ほど生きている」
「そんだけ生きててやったことなかったのか、花火」
「ない。そもそも日本に来ることすら、あまりなかった。この国は妙に湿っている。あまり好きではない。しかし、ジョセフのくそガキ――いや、元くそガキのくそジジイが、貞夫がおらん間のホリィと承太郎が心配でたまらん、ちょっと様子を見てこいと煩いものだから、仕方なくな、このDIOは。お前を構うのが存外楽しかったせいで、こんなに長居する羽目になったのだが」
「俺の為に10年も日本にいた、ってのか、お前は」
「まあ、そのようなものだ」
尻尾のような金髪を揺らしながら、DIOが肩越しに振り返る。にやりと細まった両目は果たして、どこまで本気であるのか分かったものではない。
「お前はまたそうやって、適当なことばかりを」
げんなり、と呟いたつもりの言葉はしかし、ちょっとした歓喜を隠しきれぬとばかりに上擦っていた。何のかんので俺は、この吸血鬼が嫌いではない。決して、嫌いではないのだ。上塗りされる居た堪れなさから逃れるべく、缶を傾け目を反らす。視界の端で、DIOは隈の浮いた目元をふっと綻ばせ、かと思えば再び薄情に俺にうなじを向けた。手元の線香花火は未だ、燃え続けているようだ。
「儚いものだな。馬鹿みたいに」
DIOが、平坦な声で呟いた。唐突である。
「どうした、急に」
「急に、思ったからだ。この線香花火というものは、馬鹿馬鹿しく儚いものであるのだなぁと」
「それが、いいんだろう。俺にはよく分からんが」
「わたしにもよく分からん感性だ。蛍の光よりも小さく燃え、さっさと燃えカスになってしまう儚さの、一体なにがありがたいというのだ。情緒か、情緒というものか。馬鹿馬鹿しい」
振り返るのもまた、唐突である。今度は体ごとこちらを向いたDIOは、ついに燃え尽きた線香花火の残骸を、傍らのバケツに放り捨てた。そしてゆっくりと立ち上がり、どっかりと俺の隣に腰を下ろす。不機嫌な横顔である。差し出してやったビールを受け取る手付きすら、荒々しい。
「わたしは、ああはならんぞ」
今夜のDIOは、とことん唐突だ。
「儚く美しく燃えて、静かに尽きるだって?そのような生き方などしてやるものか。わたしはな、このDIOは、灰になってもこの世にしがみ付いてやる。とことんまでに生きてやる。ただ一時君は綺麗だ、綺麗だ、美しいと褒めそやされたとして、一体それが何になるというのだ。灰になったわたしを見ろ。それでもわたしが美しいとほざけるのなら、わたしはそいつと『幸せ』になってやってもいい――が、そのような者は現れぬだろうし、わたしは永遠に『幸せ』になれぬままただひとり、この世界に君臨し続けるのだ。幸せ、幸せ。そのような生温い堕落になど、この身を落としてなるものか」
一息に吐き出したDIOが、勢いよく手元の缶のプルタブを起こす。ぷし、と軽快な音と共にどろりとした泡が溢れ、DIOの指先を白く汚した。指先の泡も拭わずに、DIOは豪快に缶を傾ける。そうして足を組みだす様も豪快そのもので、肌蹴た裾から飛び出した白い脚が、艶めかしく月光に照らされている。こう惜しげもなく曝け出されてしまえば、ありがたみもクソもない。
「それこそが、このDIOがDIOたる生き方であるとは思わんか、承太郎?」
木目の床に後ろ手を付いたDIOが、斜めから見上げるように俺を見て、そして、笑った。傲慢な笑顔である。自分こそがこの世の頂点に立っているのだということを、ちっとも疑っちゃいないのだろう。綺麗だ、美しいだのの賛辞だって、当たり前に捧げられるものだと思っているのだろう。息をするように。
「訳の分からねぇこと言ってんじゃあねぇぜ、くそじじい」
――灰には灰の、趣があるのだろう。灰になってもきっとお前は、馬鹿みたいに綺麗なままなのだろう。
咄嗟に舌先を衝きかけた本音は、実際言葉にするにはあまりに仰々しく、馬鹿馬鹿しい。本心からそう思ってしまっていることがまた、救えないのだった。
10年浮かんだままの隈が消えるまで、1度だけでもいい、灰になるまで眠ったって、お前がお前であることが変わってしまうわけもない。ちょっとくらい幸せになったって、お前みたいな強烈な奴が変わってしまうわけがあるものか。
お前にとっての幸せってのは、一体どんなものなんだ。ここに居るお前は幸せではないとでもいうのか、俺から見れば曰く俺7人分の人生を謳歌しているようにしか見えないが。
――ガキの頃から当たり前に傍にいた相手に、今更幸せとはどんなものだ、お前が綺麗だ、なんて改まった話をすることほど、気恥ずかしいことはない。

「承太郎のような若造に易々と理解をされるほど、安い男であるものか、このDIOは」

小首を傾げるDIOの笑顔は、言葉の傲慢にはそぐわず妙に穏やかで――やたらと、儚い。
灰になるまで抱き潰してやろうか、お前。
矢のように喉元を通り過ぎて行った衝動を抑えるべく、
「お前は面倒くせぇだけだ」
そう目を見ながら言ってやれば、
「面倒なのがいいのだろ」
訳の分からん切り返しが飛んでくる。額を小突いてやろうと手を出せば、すかさず奴も手を伸ばし、空中で意味のないハイタッチである。あまりに馬鹿馬鹿しかったので、思わず笑った。そんな俺を赤い目の中に閉じ込めて、DIOもけらけらと笑っている。


そんな、17歳の夏だった。あれ以来妙な衝動がやってくることはなかったし、DIOがあの浴衣を着ることも、花火をすることもなかった。そうこうするうちに俺は受験をしては1人立ちをし、結婚をすれば人の親にもなった。DIO、と名前を呼べば間髪入れずに返事が返ってくる生活は気付いた時には終わってしまっていたものの、俺の人生にはやはりあいつが当たり前のように居座って、離婚をした時などは指を差して笑われたものだった。
「そうか、やはり駄目だったのか、そうか、そうか!」
やはりって何だこの野郎。

夜の街を肩で風を切るように歩いてゆくDIOである。その後ろ姿は俺が17歳だった頃から――いいや、そのずっと前から変わらないはずなのに、40を過ぎた今となっては何やら妙に、ああ、思っていたほど広い背ではなかったのだな、と感じるのだ。
久しぶり、それこそうん年ぶりに、DIOと2人きりで食事をした帰り道だ。曰く俺と徐倫の和解祝いなのだそうだが、実際はそれにかこつけて俺にたかりたかっただけなのだろう。DIOの目論見などは端から分かりきったものだった。
しかし、断る気にはなれなかった。本当に、久々のことだったのだ。
進学を機に家を出てからは、俺の身辺はいつだってそれなりに忙しなかった。DIOとの連絡が絶えたことはなかったが、べったり共に過ごしてきた時ほどの繋がりなどはいつの間にか途切れてしまっていた。当たり前といえば、当たり前のことなのだろう。時間は形を変えて流れてゆくばかりなのだから、関係の在りようなどもその都度に変わってゆくものだ。
それが、寂しかった。ふとそう思ってしまった。数日前、偶には2人で食事に行かないかとあいつから電話がかかってきた瞬間に、ああ、思えば随分DIOの顔を見ていなかったような気がする、承太郎、と繰り返すあいつの声を聞いていなかったような気がすると、空条の家での10年弱の記憶が強烈な寂寥感を引き連れてやってきて、どうしようもなく、DIOに会いたくてたまらなくなってしまったのだ。
『小娘1匹に手を焼かされ続けている情けない男を、精々笑い飛ばしてやろうではないか』
電話口の向こうから聞こえる、何10年も変わらない小憎たらしい声が無性に懐かしかった。
――もしくは無性に、愛おしくてならなかった。

「お前が結婚だのなんだの言い出した時に、言ってやっただろう、承太郎?背中で全てを語るには、人間というものの精神構造は複雑が過ぎるのだと」
踊るような軽い足取りで、DIOは月の夜を進んでゆく。その背を追いながら、何とはなしに思案する。俺にとってのDIOというものについてである。
今更そんなものを定義しようというのはいささか滑稽に思えるほどに、俺の人生には当たり前にDIOがいた。改めて考えてみればおかしな話である。家族だとも、友人だと思ったこともなかった。そんな奴と共に青春の大半の時を過ごし、結婚と離婚を経た今になっても共にいる。17歳。いつかDIOと庭先で花火をしたあの日から見れば、俺も程々に大人になったというか、それなりに変化をしているのだろう。しかしDIOは変わらない。何年たっても変わらぬ声音で承太郎、承太郎、と俺の名を繰り返すのだ。
「承太郎、お前はいつまでたっても子供だな、承太郎。難儀なものだろう、幸福というものは?ふふふ、下手に失くそうものなら胸に穴を開けてゆくばかり感情の、何が素晴らしいものであるのだろうか!」
月明かりの立ち込める夜の世界に、DIOの金髪がしゃらりと揺れた。ステップを踏むように軽やかに振り返ったDIOは、なにやら勝ち誇って笑っている。相変わらず、馬鹿みたいに綺麗だった。目元にはべったりと隈が張り付いているのに、名年経っても何度見ても、いつだってDIOは綺麗なままだ。

「ひとりは楽だぞ、承太郎。どこへだって飛んでゆける。なんならあの月にまでもな、承太郎、ふふふ、承太郎よ」

細められた紅色の虹彩、月光を受けて輝くそれの美しさに、目眩がした。
「――俺が思うにだな」
「ん?」
立ち止まったDIOが、小首を傾げる。距離を詰めながら、俺は口が動くままに喋った。思考が挟まる余地もなく、この夜、なにやら俺の頭の中はDIOという男についての感慨で爆発しそうになっている。まとまりのつかない言葉たちを、吐き出さずにはいられなかった。
「多分なお前、とっくにひとりなんかじゃあないんだぜ」
「はあ?」
「お前には、俺がいるだろう」
真正面で対峙するDIOの両目は、俺の視線より数センチ下にある。見た目の年齢だけでなく、いつの間にか身長すらも追い越してしまっていた。それだけの時間が経っているというのに、未だにDIOは自分はひとりなのだ、決して幸せなどではない、なんて戯言を息を吸うように口にする。たまらん気持ちにもなるものだ。40年の人生からこいつに出会うまでの10年弱を抜いた月日、つかず離れずながらもずっとこいつと過ごしてきた俺は、こいつにとっての一体なんだったというのだ。
「いつだったかお前、俺のせいで日本に10年もいる羽目になったっつってたろ。それが答えなんじゃあないのか。原因も結果も俺があってこそなんだぜ、DIO」
「言ったか、わたし。そんなこと」
「言った。覚えてる」
「つまらないことを、よくもまあ、後生大事に記憶しているものだ」
「嬉しかったからな」
「……」
「なんだその顔」
「……」
「だからなんだよ、その顔」
メンマだと思って食べたものが割り箸だった、みたいな煮え切らない表情を浮かべるDIOである。DIOにこんな顔をさせてしまうこと、つまりどうにも俺らしくはない台詞をしたり顔で言い放ってしまった自覚はあるが、今更青臭い羞恥心に居た堪れなさを感じるには、俺も年を取りすぎていた。なので目を反らし言葉を飲み込む代わりに、苦笑をした。ついでにDIOの額を指先で小突いてやれば、DIOは嫌そうに首を振って、じっとりとした目で俺を睨みつけてくる。
「少なくとも、俺にはお前がいた。家を出るまではお前にべったりみたいなもんだったし、40歳になった今も結局俺は、お前といる」
「それが一体、なんだというのだ」
「そろそろお前にしておこうと思うんだが、ということだ」
「うおっ!?」
剥きだしの手首を掴み上げて、引き寄せる。頓狂な声を上げるDIOはたたらを踏み、しかし俺の胸に飛び込んでくる前に両足で踏ん張った。
「意味が分からない!」
「ああ?プロポーズしてんだよ、プロポーズ。そんくらい分かるだろ、てめーもいい年こいたじじいなんだから」
「だからお前は、一々言葉が足りんのだッ!ふん、プロポーズだと?お前は一体何を勘違いしている。いつからわたしとお前が、そのような仲になったというのだ」
「今日、久々に会ったろう。2人きりで」
「それがどうした」
「楽しかったな」
「……だからそれが、どうしたというのだ」
「だからだ」
「は?」
「お前といるのが、楽しい。お前とならこの先何10年一緒に過ごしたって、飽きやしねぇんだろうと思う。それが理由じゃあ、いけないのか」
ぽかんとしたDIOの、丸々と見開かれた赤い瞳はあまりに無防備である。試しに掴んだ腕をもう一度引き寄せてみれば、今度は小さくわ、と声を漏らすDIOの体が、ぼすりとこの腕の中に収まった。もう片方の腕で引き締まった腰を抱き寄せる。抵抗はなかった。正直内心、ほっとした。もうとんでもなく長い付き合いになってしまったDIOではあるが、こう言った接触をしたことは一度たりともなかったのだ。それなり、では済まない緊張が、確かにあった。
腕の中に閉じ込めた体の頼りなさに、いつかこの胸を刺した衝動、幸せなるものを拒絶しながら線香花火を燃やすDIOを灰になるまで抱き潰してやりたいと、そう思った17歳の夏を思い出す。苦笑が漏れた。あまりにも青い、青い衝動だ。
「意味が、分からんのだが」
俺の両肩に手を置いたDIOが、斜め下から掬い上げるように睨みつけてくる。
「確かにわたしとお前の縁は、お前がケツの青いガキだった時から今日まで続いてしまっている」
「ああ」
「ならば、それでいいではないか。きっとこれからも、変わらずに続いてゆくのだろう。わたしといるのが楽しいというのなら、勝手にわたしの傍にいるといい。今更プロポーズなぞをされねばならん意味が分からない。それとも何か、わたしに欲情でもしているのか、お前」
「ああ――そうだな」
「んむっ」
掠め取った唇は、柔らかかった。どうしてDIOとキスなんぞをしているのだ、と思う。確かにDIOの言う通り、俺とこいつは決してこんなことをする間柄ではなかったし、こいつの訳の分からん色気に今更、中てられたというわけでもない。マイノリティな世界の住人であるわけでもなく、他の同性相手にはキスはおろか抱き締めることすらも出来る気がしなかった。
本当に、何をしているのだ、と思う。プロポーズなどが必要ないというもの言われてみればその通りだ。40年、引く10年弱。それだけの時間を、何の約束をするでもなく共に過ごしてきた。これからもそうなのだろう。そんな予感はまだケツの青いガキの時分からこの胸にあり、実際俺とDIOの縁というものは、俺が死ぬまで途切れないものであるのだろうと思う。
しかし――それだけでは足りないのだ。足りないのだと、思ってしまった。どうにも俺は、

「――そろそろお前を、理解させてくれないか」

そう思ってしまっているらしい。
40歳。いつかDIOに、お前のような若造に理解をされてなるものかと突っぱねられてから、早20年強。多くの人と出会い、別れ、時には恵まれた己の人生に深い感慨を抱き、時には知りたくもなかった己の内面を突きつけられたりなんかしながらも、この夜までやってきた。若造を名乗るには、年を取りすぎている。妻子に逃げられた情けない男ではあるが、まがいなりにも、いい年をした40の大人なのである。
だから、今ならばこの複雑な吸血鬼を理解できるのではないか。色んなものを突っぱねてひとりを気取ろうとするこの男の、唯一になってやることができるのではないか、と、思うのだ。
目と鼻の先にいるDIOは、やはりどうにも煮え切らない顔をしている。ついさっきまでキスをしていたのだというムードが微塵もない、ちっとも可愛げのない表情がおかしかったので、思わず吹き出した。途端、足を踏みつけられた。
「理解、理解!その手段にセックスを選ぶとは、なんともまあ爛れた大人になってしまったものだろうな、承太郎よ!」
「痛ぇよ。踏むな馬鹿」
「馬鹿はお前だ!今更わたしとどうにかなりたいなんて、正気か、お前」
「今更だからだ。今更、改めて話すようなこともないだろう。だったらもう、することはひとつじゃあねぇか」
理解をしたいのだということは、つまりこいつの何もかもを手に入れたいのだということだ。内からの外からも、この男を征服してしまいたかった。承太郎、承太郎、と楽しげに俺の名前を呼ぶくせに、それでも自分はひとりなのだ、決して幸せではないのだと嘯くこの男に、「俺」は確かに「ここ」にいるのだということを、そろそろ骨の髄まで知らしめさせたいと思っている。手っ取り早い方法としてぱっと出てきた手段がセックスだったという辺りは、DIOに言うよう、爛れた大人になってしまったという他にない。
「……いつになく頑なではないか、承太郎め」
「オラ、さっさと帰ってやることやろうぜ」
「今日は最初からそのつもりだったのか?」
「いいや」
DIOの体を解放し、しかし逃げられてしまうその前に手首を掴む。そうして歩きだせば、DIOは引きずられるようについてくる。俺の腕など簡単に振り払えてしまうはずなのに、それをしないのだ。
「久々に会ったお前は、俺がガキん時から変わらずにどうしようもない奴だった。知ってたことだが、改めてそれが、嬉しいと思っちまった。セックスに1から100まで理屈を付けなきゃあならねぇガキでもねぇんだ。きっかけなんて、そんなもんで充分だろう」
振り返れば、DIOは訝しげに、もしくは推し量るようにじっと俺を見つめている。剣呑な表情はしかし、数秒と経たぬうちにふっと呆れたように綻んだ。
「お前は変わったのか変わらんのか分からんな、承太郎よ」
どういう意味だ。
そう問い返す前に、ばっと腕を振りほどかれる。かと思えば間髪入れず、捩じ切れんばかりの力で俺の手を握ってくる。
「なんだお前、急に」
「昔はよく、こうして手を繋いで散歩をしたものだった」
「てめーがあっちこっちにふらふらしやがるからだ。手でも繋いでおかなけりゃ、安心なんぞできたものじゃあなかった」
「承太郎」
「ああ、なんだ」
「いつの間にかこんなにでかくなっていたのだな、お前の手は」
だから、どういう意味でお前は、そういうことを言っているのだ。
そう問おうとして、しかし結局、やめにした。DIOが、似合わない顔をしていたからだ。過ぎ去った月日の感慨に浸っているようでもあり、何かを諦めているようでもある。いつかの花火の夜を思い出すその顔は、やはりなにやら妙に、儚かった。




back

since 2013/02/18