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エンドレスサマー

「ん」
「なんだこのふざけたノートは」
「日記だ」
「は?」
「日記付けろ、お前。どうせ他にすることもないだろう」
「はあ?というより貴様――わぷっ」
黄色地にきらきらと色とりどりのハートが散りばめられた、なんともファンシー、表紙からして強烈にわたしは女児向けアイテムですよと主張するノートである。そんなものを引っ掴む承太郎の手は滑稽なまでに武骨であり、しかし羞恥心の気配も見せずDIOにそれを差し出す姿とくれば、それはもう堂々としたものだったのだ。
貴様、そういう可愛いの死ぬほど似合わんぞ、何だそれ!何だそれ!
からかう、というよりも、一種の恐慌状態でそう叫び出しかけたDIOの額を、承太郎は手にしたノートでぺしりと打った。DIOの手元のスプーンからは水羊羹がカップへ墜落し、DIO本人は首を反らせて目を白黒させている。その隙に、承太郎はノートをDIOの胸元へ押し付けた。しかしDIOは受け取ろうとしない。訝しげに、或いは憤りを込めて、承太郎を睨みつけるのみである。
「せめて受け取れよ」
「いらんわ、そんなもの」
「お前が気に入りそうな柄のやつを、必死こいて探してきてやったんだぜ」
「大変に無駄も無駄な努力ご苦労だったな承太郎。わたしはノートを入り用としていないし、そんなふざけたハートの柄なぞはちっともまったく好きではない」
「ふざけたハートまみれの格好してたのはどこのどいつだ」
「いい度胸だ歯を食いしばれ」
DIOの背後に現れたスタンドを意に介した様子もなく、承太郎は座布団の上にどっかりと腰を下ろす。
「食わねーならそれ、俺によこせよ」
「駄目だ、これはこのDIOのものだ」
スタンドを引込め、DIOは慌ててカップに半分残った水羊羹を掬い上げる。夏の和菓子をもしゃもしゃと咀嚼する横顔は、なにやらほんのりと幸せそうだ。
(また、酷い堕落を。しちまったもんだなぁ、おい、すっかりと)
やたらに平和で微笑ましい光景がどうにもおかしく、もしくは幸せをお裾分けされたかのような気分がくすぐったかったので、承太郎は身を捩るように苦笑した。平和だ、どこまでも。DIOの頭上では、軒下に吊るされた風鈴が吹き込む夏風にりんりんと鳴っている。
「……なんだ、その顔は」
「てめーこそ何だよ、その顔。口んとこ。ついてるぞ」
「む」
そうして素直にごしごしと口元を拭う仕草も、馬鹿馬鹿しいまでに堕落しきったものである。
再び水羊羹を口へと運び出すDIOを横目に、承太郎は手持無沙汰にノートのページを捲った。ファンシーな表紙の下には、可愛らしい罫線とハートの柄に彩られた少女趣味全開の世界が広がっている。やっぱり選択を間違えてしまったかもしれない。承太郎は苦笑を深め、DIOは眉を顰める。りん、と鳴る風鈴だけが、場違いに涼やかだ。
「大体にして、急に日記をつけろとはどういうことなのだ?」
「ああ――まあ、あれだ。財団が。てめーの日常生活の様子を把握しておきたいとかで」
「ふん。そんなものは、貴様が適当にまとめて提出をすればいいだけではないか」
「こんなにべたっと一緒にいるもの休みくらいなもんだろうが。お前の平日の過ごし方なんぞ、俺は知らん」
「だから、適当でいいと言っているだろうに。わたしが大人しくしてやっていることくらいは知っているのだろ」
そうして承太郎から目を反らし、再び水羊羹の咀嚼に没頭しだすDIOである。その横顔は、やはり妙に幸せそうだ。
「それは俺くらいにしか分からねぇことだろう。俺から見たお前は100円の水羊羹なんぞでほわほわと幸せになってやがる安上がりな居候だが、あっちからすればお前は100年も昔からやってきた化け物で、悪逆非道の吸血鬼だ」
「結構ではないか。そちらの方が余程聞こえがいい」
「馬鹿。お前来月から、お前のことをとんでもない悪党だと思ってる奴らに囲まれて過ごすことになるんだぞ」
スプーンを咥えたDIOが、目を瞠る。どうやらすっかり忘れてしまっていたらしい。承太郎はやれやれだぜ、と呟きながら、再びぺらぺらとノートを捲った。
DIOが空条家の一室を間借りしているのは、あくまで財団の研究所がDIOを受け入れる体制を整えるまでの仮の措置である。時はだらだらと流れてゆくばかりであり、滞在期間は残るところ一週間。縁側で月を見ながら水羊羹を咀嚼する平和な日々は、直に終わりを迎えてしまうのだ。
DIOの喉が、こくりと上下する。白い手に大事そうに握られたカップは空になっていた。
「もしや貴様は、わたしの心配をしているのか?」
図星である。承太郎は、引き取られた先の研究所でのDIOの身の振り方、周囲の対応が気がかりでならないのだ。取り繕う言葉も思いつかないほどの本心だった。なので男らしく、承太郎はDIOの目を見ながら断言する。
「悪いか」
「……」
「なんだその顔」
「気持ち悪い」
「なにがだよ」
「貴様のぬるい優しさがだ」
承太郎の誠意を鼻で笑い、DIOは首を反らして風鈴を見上げる。メランコリックな横顔からは、水羊羹にもたらされた幸せなどはとっくに剥がれてしまっている。ように、承太郎には見えてならなかった。
「ちゃんとつけろよ、日記」
「面倒だ」
「てめーのくっそ平和な暮らしっぷりをそのまま書いてやれば、あっちだって警戒するのも馬鹿らしくなるだろう」
「有象無象の警戒を解いてみたところで、なにがどうなるというのだ」
「水羊羹くらい買って貰えるようになるかもな」
りん、と風鈴が鳴る下で、DIOの金髪が揺れている。湧き出て止まぬ感傷から目を背けるように、承太郎は遠く、どこまでも遠くまで澄み渡る夜空を見た。墨で塗りたくられた空に散らばる星々は、DIOのブロンドの輝きとよく似ている。これも下らない感傷だ。承太郎は苦笑する。
「まあ――わたしも、余計な事を構えるのは本意ではないからな。態勢が整うまでは大人しくしていてやろうと、決めたものであるし」
「整わせねーよ。その前に俺が殴りに行く」
「できるものならやってみろ」
片頬を吊り上げて、DIOが笑った。そしてひったくるようにノートを手元に手繰り寄せ、これ見よがしに掲げてみせる。
「センスのない男だなぁ」
「てめーにだけは言われたくねー」
「このふざけたノートを提出して、精々笑われてくるがいい。そうすれば、わたしの溜飲も少しは下がろうというものだ」
縁側の外に放り出された、白い、白い生脚が、ぬるい空気を切り裂くようにぱたぱたと跳ねている。子供じみた仕草である。そんなDIOと戯れるように、風鈴はりんりんと鳴っている。そよぐ風は涼やかだ。
――ああ、俺の夏は直に終わってしまうのだ。
湧いて止まぬのはやはり、感傷ばかりだった。額に浮いた汗を拭い、承太郎は広く澄み渡る空を見る。隣では、DIOが同じ夏空を見上げている。幸せなものだな、と承太郎は思った。


「よく他人んちでそこまでだらけられるもんだなぁ、おい」
「わたしがどこでどう過ごそうが、わたしの勝手ではないか」
本日も空条家の縁側にて怠惰に過ごすDIOである。傍らには水滴の浮いた空のコップと『祭』の一字がでんと入った大きな団扇。2つに折り畳んだ座布団を枕代わりに寝っころがり、だらだらと本を読んでいる。
やれやれだぜ、と呟くことも馬鹿馬鹿しく、承太郎はDIOを見下ろしたまま溜息をついた。そして枕元に腰を下ろす。体を起こす様子もなく、首を反らして承太郎を見上げるDIOの姿はやはり、どこまでも怠惰である。
「今日は何やら、早い帰りであるようだが」
「偶にはな」
「ふぅん」
そうして反らした首を元に戻し、承太郎などそこにいないかのように読書へ戻ろうとする姿は薄情なものである。おい、と声を掛けてみても、ん、と気のない吐息のような返事があるのみだ。しかしどんなにぞんざいな態度を取っていようとも、とりあえずは人の話を聞いてくれていることを知っている。露わになった生白い額を見下ろしながら、承太郎は構わずに話しかけた。
「お前、書いたかあれ、日記」
「ん、ああ、うむ」
「かえってあっちを警戒させるようなことは書いてねぇだろうな」
「そんなに心配なのか、このDIOが」
「悪いか」
「気色の悪い」
くすくす、と漏らされた吐息のような笑い声が、コオロギの鳴き声と重なって夏の空気に融けてゆく。薄情な白い指先は、ぺらぺらとページを捲り続けている。
承太郎は、立てた膝に頬杖をつく。そして打ち捨てられた団扇を拾い上げ、ぺしりと軽く、DIOの額を打った。DIOが鬱陶しげに寝返りを打つ。俯せになったDIOは、揶揄するようないやらしさを湛えた双眸で承太郎を見上げたまま、顎を乗せた座布団の下をまさぐった。訝しげに眉を寄せる承太郎に見守られること約5秒。それだけの時間をかけてだらだらと取り出したのは、相も変わらず滑稽なまでにファンシーなハートのノートである。
「日記の趣旨くらいは理解している。下手なことは書いていない。その目で確かめてみるといい」
「なんでこんなところにまで持ち込んでやがるんだ」
「ホリィが部屋の掃除をすると言いだしたものだからな。このような滑稽なノートを見られては敵わん。わたしの趣味が疑われてしまう」
破れた布みたいな服を好んで着る男が何を言う。小競り合いの火種を飲み下し、承太郎はノートを受け取った。そして表紙を捲る。薄ピンクの紙面に等間隔で引かれた濃いピンクの罫線、日付欄や余白は大小のハートのマークで彩られている。蜂蜜を塗りたくったような少女趣味が溢れるその世界に於いて、DIOがその手で記したのだろうアルファベットの羅列――

8/25 起きた。寝た。水羊羹を食べた。日記をつける羽目になった。書いた。もう寝る。

存外に雑な筆跡で綴られたその一文だけが、奇妙に武骨で異質である。
「……」
「さあさあ、存分に喜ぶのだ承太郎。このDIOがわざわざ貴様を安心させるためだけに、書きたくもない日記を書いてやったのだぞ。礼をせねば気が済まんというのなら、アイスなり水羊羹なりをこのDIOに貢ぐといい!」
「……」
「承太郎?なに辛気臭い顔をしてへぶっ」
30枚綴りのノートの背表紙が、強かにDIOの額を打ち付ける。痛々しい赤みの差した患部を見下ろしながら、承太郎は嘆息した。
「やれやれだぜ」
「なにがやれやれなものか、承太郎め!」
赤くなった額を両手で押さえたDIOが喧々と吠える。そんなDIOを尻目に、改めて承太郎はノートに記されたたったの一文へ目を走らせた。簡潔を通り越して、あまりにも味気のない『日記』である。頭を抱える承太郎の視界の端では、べしゃりと枕に突っ伏したDIOが不満気に口を尖らせている。
「ろくに書くことがない。それくらい、分かるだろ」
「……まあ、それはそれで。お前がどんだけ大人しくしてるかってことの証明にはなるのかもしれねぇが」
「なら問題はなかろう」
「最後まで聞け。なんつーか、俺が思うにだな。あっちが知りたがっているのは本当の所、今現在のお前の思想だとか、何を思って生活してるのかってことなんだろうぜ」
「何故そんな所まで明け透けにならねばならんのだ」
「訳の分からん日記を書きやがった前科がある」
「ああ、あれな。貴様が燃やしたあれ。覗き見るだけでは飽き足らず」
「いつまでもぐちぐちうるせー奴だな」
今は灰となった日記に記された言葉の羅列が、承太郎の脳裏に浮かび上がる。鈍い頭痛を引き連れて。何度思い返しても、訳の分からん日記だった、と承太郎は思う。

天国への行き方。青春の回想。天国。母親。友人。天国、天国!

ディオ・ブランド―なる青年が抱えた青春の鬱屈と、DIOなる吸血鬼が目指した天国という世界への空想で埋め尽くされた古びた紙面は、さながら混沌の体現だった。何時間とかけてカオスの具現たる日記を読み込んだ承太郎であるが、結局彼は最後までそれを記したDIOをどう受け止めてやるのが一番なのかが分からなかった。ただ胸中に湧いたDIOへの感情が、日記を読む前と後では肌を焼く日差しの様に、じわじわと形を変えてしまったことだけは確かだったのだ。
それは母さん、母さん、と繰り返し続けるディオ青年への同情だったのかもしれない。そんな青年が求め続けた天国という場所へ、化け物となった彼を連れて行ってやりたいとすら思ってしまったのかもしれない。
波のように揺れる心境にまとまりがつく前に――ついてしまう前に、承太郎は靴も履かずに夜の庭へと飛び出した。そして日記を焼き捨てた。安い同情もろともに。結局焼き切れなかったDIOへの情は厚い胸の内で燻り続け、こうしてDIOの先々の身の振り方を死ぬほど心配する羽目になっているのだが。
「もういいのか、お前は。天国とか、そういうのは」
「今は――そうだな、今しばらくは、いい」
「丸くなっちまったもんだな、おい」
「快適だったからな、中々に。この湿った国での生活は」
「ちょっとした天国だったってか」
「そこまでは言っていない」
ふふん、と笑う承太郎へ鋭い眼光を飛ばし、DIOは横向きに寝返りを打った。憮然とした横顔を、承太郎は手にした団扇ではたはたと煽ぐ。特別な理由などはない。そうしてやりたいと思っただけだ。
「わたしの日記が気に入らんというのなら、貴様が手本を見せてみろ」
「何言い出すんだ、お前」
「今日は貴様が書け」
「俺のことなんか書いても仕方ねーだろうが。お前本当に、日記の趣旨理解してんのか?」
「しているとも。した上で言うが、こんなものには何の意味もないのだぞ。何を書いたところでわたしへの警戒が解けることはないのだろうし、わたしだって、人を化け物と恐れるくせに実験だ何だと目を輝かせる輩に迎合するつもりはない。つまり貴様の気持ちの悪い心配というものは、いつまでたっても払拭されることがないというわけだ」
残念だったな、承太郎。歌うような声色でそう締めくくるDIOの横顔は、意地悪く笑んでいる。
「……、」
そんなことは分かっている。
滑りだしかけた一言を、承太郎は口を噤んで飲み込んだ。
何の意味もない行為であるのだと、そんなことは元から承知の上である。それでも如何ともしがたいDIOへの心配を紛らわせるために、DIOに日記をつけさせようとしているのだ。この馬鹿馬鹿しく平和な行為が、何かのよすがになりはしないかと、淡い期待を抱き続けていたいが為に。
DIOの暮らしぶりを把握しておきたいという財団の申し出は、これからのDIOへの生活に便宜をはかる為のものではない。生活態度を知りたい。思想を知りたい。それは結局、実験動物の生態観察の一環だ。
分かっている。分かっている。それでも俺が安心を得る為には、必要なことなのだ。
惰弱な泣き言である。承太郎はかぶりを振った。そしてぼんやりを庭を眺めるDIOの横顔を、ぺしりと団扇で打ち付けた。
「ええい、先程から何なのだ、ぺしぺしと!鬱陶しいぞ、承太郎め!」
お前のせいだ、馬鹿野郎。
重い溜息を吐き出しながら、承太郎が立ち上がる。片手にハートのノートを携えて。
「いつまでもそんなところで寝てるんじゃあねーぞ、ぐうたら吸血鬼」
「暇なのだ。体も怠い」
「飯食ったらちょいとコンビニまで行くつもりなんだが、ついてくるか、お前」
「行く」
「ちゃんと着替えとけよ」
「ん」
そうして承太郎は、怠惰な吸血鬼の転がる縁側に背を向けた。夏の庭では、コオロギがりんりんと鳴いている。


8/26 コンビニでDIOにアイスを買ってやった。店を出てすぐに食べやがった。その後家に帰ってから、俺が風呂に入っている隙に俺の分まで食べやがった。食い意地の張ったじじいだ。仕返しに冷蔵庫の水羊羹を食ってやった。蓋に名前が書いてあったが知ったこっちゃねー

「……DIO?」
「よくぞ帰ったな、わたしの水羊羹を食いやがった承太郎よ」
「何してんだお前、こんな所で。わざわざ俺の出迎えか?」
「思いあがるなわたしの水羊羹を食いやがった承太郎よ。暇なので星を見ていたのだ、わたしの水羊羹を食いやがった承んむっ」
「うるせぇ黙れ」
承太郎の武骨な手に握られた棒アイスが、むにっとDIOの唇へと押し当てられる。昨晩はDIOに横取りされ、今日こそは風呂上りに食べるのだと帰り掛けに買ってきたアイスである。結局今日もありつくことができなかった。少々の落胆に肩を落としながら、承太郎は木製の門に背中を預け、しゃがみ込むDIOの隣に並び立つ。
「さてさて。わたしの水羊羹を横取りしただけではなく、せっかく書いてやった日記にまでケチをつけてきた承太郎であるが」
「先に俺のアイス食いやがったのはてめーだ」
「わたしはちゃんと名前を書いておいたが、貴様は書いていなかった。よってわたしがソーダのアイスを食べたのは横取りには当たらない。冷蔵庫に入っていたものを食べただけであるー」
「屁理屈捏ねるな、ろくでなし」
承太郎の踵が、DIOの臀部を小突く。DIOは腿への頭突きで以て応戦する。悪童の様にじゃれ合う大男2人の間を流れてゆく夏の風は、どこまでも生温い。
「そうだ、日記だ日記。あんなわたしへの不満を愚痴っただけのものを日記とほざくつもりなのか貴様。あれでよくわたしを馬鹿にできたものだな」
「お前が書けっつーから書いてやっただけだ。文句をつけられる謂れはねーぜ」
「わたしだって、貴様が書けと言うから書いてやっただけだ」
「元々日記なんか、ろくにつけたことがねぇ。でもお前はあれだろう、俺が燃やしたあれ。訳の分からん日記だったが、それなりに体裁はとれていた。あんな感じで書けねぇもんなのか」
「無理だな。モチベーションが違う」
「たかだか日記にモチベーションもクソもあるか」
「たかだか日記に必死になっているのはどこのどいつだ」
「うるせー馬鹿」
アイスを咥えたDIOが、承太郎を仰ぎ見る。にんまりとした笑顔に敵意はない。生温い平和にオミットされた邪気にはいたずらな愛嬌があり、それがまた、承太郎をたまらな気分にさせるのだ。
妙な情ばかりを抱かせるな馬鹿野郎。
再びDIOの臀部を蹴りつける。DIOからの反撃はない。得意げな顔をして、溶けかけのアイスを齧っている。
「仕方のない男だな。よし、ならば今日は、このDIOが手本を見せてやろう」
「モチベーション上がらねぇんだろうが」
「貴様の煮え切らない面が面白かった」
「は?」
「承太郎よ、そんなにこのDIOが心配なのか?」
淡い月光を反射する赤い瞳がすっと猫のように細まって、承太郎を試している。弧を描く赤い唇は、溶けたアイスに濡れていた。
「悪いか、馬鹿」
DIOから視線を引き剥がし、承太郎は天を仰ぐ。星。星。何億年も昔に爆発した星々が、千々に散らばる光となって承太郎を嘲笑っている――と感じるのは、承太郎が酷く自嘲的な気分になっているせいだ。こんな薄情な吸血鬼を心配したところで、なにがどうなるわけでもない。分かってはいても、一度抱いてしまった同情を手放すことはできなかった。もしかすると、同情以上の何某かの感情が差し挟まってしまっているのかもしれない。
煮え切らない内心に、承太郎は舌を打つ。DIOはけらけらと笑っている。
「ああ、ぬるい、ぬるい、気色悪い。わたしと貴様は決して、同じ時間に同じ星を見ながらアイスを齧るような関係ではなかったはずなのにな」
「アイス齧ってんのはお前だけだ。んな冷たいもんばっか食ってると腹冷やすぜ、くそじじい」
「口の減らん男だな」
「……なんだこの手」
生白い手を承太郎へとすっと差し伸べ、DIOは小首を傾げて笑った。
「立ちたい。手を貸せ」
「ああ――ったく、手の掛かるじじいだな」
「じじいじじいうるさいな」
「あれしろこれしろうるさいのはお前だ」
「本当に口の減らん」
「お前が言うな」
しっかりと手を握り、承太郎はDIOを引き上げる。立ち上がったDIOは少々たたらを踏みながら、額に手を当て俯いた。しかし承太郎が覗き込もうとするやいなや顔を上げ、にやにやと笑ってみせるのだ。
「心配したか?」
「してねーよ。ほら、さっさと中入るぞ」
「つまらん男だなー」
2人分の影が、空条の表札が掛かった立派な門の中に消えてゆく。繋いだ手を離し難く思う理由など、承太郎は知らなかった。


8/27 承太郎とホリィが寝静まった後に、こっそり散歩に出てみた。やはり真夜中になると、調子がよくなる気がする。それもそうか、わたしはこの世の夜に君臨する帝王であるからしてな!
この国に来てからの2週間ばかりはずっと家の中にいたものだから、外の風景は中々に新鮮だった。立ち並ぶ木の葉の緑は深く、虫の鳴き声ばかりが聞こえてくる。以前日本の夜を歩いた時は、もっとこう、明るくて煩かったように思うのだが、場所によってはこうも違うものであるのだな。まあそれは日本に限った話ではないのだろうが。
今だから言うが、わたしは本当は、貴様の膝元になど収まりたくはなかったのだ。
今だってわたしは、貴様が時の止まったわたしの世界へ土足で踏み込んできたことを不快に思っているし、この身を砕かれたことなど言うまでもない。であるというのに同情したのか何なのかは分からんが、せっせとわたしの元へ通い続け、果てはしばらく身元を引き受けると言いだしたかと思えば、心配だ、心配だと繰り返すことも気に入らない。
わたしは貴様が嫌いだ。だが、この2週間ばかりの生活は悪くなかった。貴様がああも心配がるというのなら、もう暫くここで過ごしてやってもいいとすら思っている。あの縁側なる場所は気に入っているし、貴様に四六時中心配されっぱなしだというのも落ち着かん話だからな。
ま、貴様にあーんなことをされたせいでこの身はすっかりへとへとだ。わたしは、ここでは満足に生きてはいけんのだ。近頃は睡眠時間が伸びてゆく一方だ。貴様も承知していることだろうがな。
わたしは生きるぞ承太郎。実験だなんだのと不快な思いをしようとも、いずれ返り咲く為にならわたしは羽を休める場所を選ばん。貴様も、クソ忌々しい財団も!いずれはこのDIOを大事に大事に生かしてしまったことを後悔する日が来るだろう!ああ愉快だ、愉快でたまらん ちょっと目が覚めてきた

で、日記の書き方の勝手は掴めたか?残りの日数を数えれば精々あと2度ほどだろうが、このDIOの無聊を慰めるに足る日記をしたためてみせるのだぞ。つまらないことを書こうものならまた食ってやるからな、貴様のアイス。あとあれな、ホリィに隠れて貯めこんでいるビールな。
それでは健闘を祈る、承太郎


8/28 外に出る時はせめて一声かけてからにしろ。お前本当はあんまり自分の立場だとかを理解しちゃいねぇだろう。
今日も海に行ってきた。相変わらず波の音はうるさいっつーか、なんていうんだあれ、音が迫ってくるっつーか、浜はただっ広いのに妙な圧迫感がだな。嫌いじゃあねーが、どっちかといえば縁側で風鈴だとかコオロギの鳴き声だとかを聞いてる方が好きだ、俺は。落ち着く。
結局今日も海で日没を見る羽目になったんだが、何度見ても綺麗なもんだと思う。ああいう風景を、お前は見れないんだな。なんつーか惜しい生き物だな、吸血鬼ってのは。楽しめることが人間の半分じゃあねぇか。それでもお前は、これから何百年も生き続けていきたいってのか。
説教くさいことを書いた。悪かった。不快だったら読み流せ。
冷蔵庫に水まんじゅう入れておいた。明日の朝まで残ってるようなら自動的に俺のものになる。どうしても食べたいってなら今晩中に食うこった。

もう書くことはないんだが。これだけじゃあお前は足りんだとか、わたしが書いた分量と同じかそれ以上書けだとか言い出すに決まってるから、ちょっとつまらないことを書いてみる。こっちも不快だったら読み流せ。見なかったことにしてくれて構わない。
多分、最初は同情だった。俺がこんな馬鹿みてーにお前を心配する羽目になった、このどうしようもない気持ちが生まれたきっかけだ。日記。あっただろう。俺が燃やしたあれ。あんなもんひとつで安い同情をしちまった俺が馬鹿だと言われちゃそれまでの話だが、しちまったもんは仕方がない。てめーは書かなくていいことまで明け透けに書き過ぎだ。いや、別に人に見せる為に書いたもんじゃあなかったんだろうってのは、分かってるんだが。勝手に見ちまったことは少し、悪いと思っていないこともない。
俺は結局、お前とどう接するのが最良なのかが分からなかった。俺なりに手探りにお前と過ごしてきたわけではあるが、まあ、今ではんなもんに答えなんかいらなかったんだって気がしてる。悪くなかったと思う、俺も。お前と下らんことを喋りながら、縁側でだらだらと過ごすのは案外悪くなかったんだ。
大人しくしてるお前はでかい置物みたいなもので、縁側に寝転ばれた日には邪魔で仕方がなかったが、ただそこにいるだけなら何も問題はなかった。だから、お前さえよければこのままここにいてもいいと思ってた。その方が俺も安心できる。俺はなDIO、お前が訳の分からん実験の検体になることが心配なら、俺の目の届かん場所でお前がまたろくでもないことをやらかしちまうんじゃあねぇかってことも心配なんだ。
そう思えば思うだけ手元に置いておきたくなるもんなんだが、まあ、こればっかりはどうにもならないことだ。最近お前、本当によく寝てるからな。俺のせいで衰弱死されるってのも目覚めが悪い。
うっかりあの日記を見つけたりしなければ、こう思うこともなかったんだろう。なんつーか、よく分からんもんだな、人生ってもんは。大げさか。

いい加減何を書きたいのか分からなくなってきたからこの辺でやめにする。とにかく海はいいもので、夏の縁側も悪くはないもので、冷蔵庫には水まんじゅうが入ってるっつーこった。
これだけ書いてやったんだ。文句付けるなよ。


「愚痴の次は恋文か。貴様本当にろくに日記をつけたことがないのだな」
「気色の悪いこと言うなよ、おい」
「気色の悪い文章を書いたのは貴様だ。ん」
「珍しいこともあるもんだな」
「気まぐれだ。ありがたく受け取っておけ」
承太郎の眼前に棒羊羹を差し出すDIOの顔はといえば、それはもうとんでもない渋面に顰められている。今日も今日とて縁側で寛ぐ吸血鬼の隣に腰を下ろし、承太郎はビニールを向いた羊羹の端を齧った。甘い。舌が融けるように甘い。
「承太郎は、馬鹿だな」
板張りの床に後ろ手を付いたDIOが、月を見ながら羊羹を嚥下した。ぬるい風が駆け抜ける月の夜の元、空の星とDIOの金髪だけが燃えるように眩い。
「わたしがろくに体を起こしていられぬほどに衰弱してしまったのは貴様のせいで、来月から訳の分からん研究所で過ごす羽目になったのも貴様のせいだ。なのに貴様はわたしが心配でならんのだと言う。手元に置いておかねば安心が出来んのだと言う。馬鹿な男だな承太郎。端からわたしに関わらねばよかったのだ。そうすれば貴様は、愚にもつかない懸念に頭を悩ませる必要もなかった。わたしだって、もっと自由にやりたいことをやれていた」
「残念だったな。俺も残念だ」
「まったくだ。これだから、先の見えん人生というものは嫌になる。ままならないことばかりだ」
だからお前は、天国だとかいう胡散臭い世界が欲しかったんだろう。
我ながら分かったような口を利くものだ、と承太郎は苦笑する。なので飲み込んだ。実際に口に出そうものならば、気難しい吸血鬼は「わたしの世界を気安く語るな」だとか「生意気だ」とか、心から嫌そうな顔をして吠えたてるに違いない。その程度のことは分かる承太郎である。それだけずっと、隣の男を見続けてきたつもりでいる。
「先の見えん人生を。これからお前は、どうやって生きていくつもりなんだ」
「見えない」
「DIO?」
「見えないと言っているだろう。一寸先の足元が、ちっともまったく見えやしない。月が、あんなにも眩く照っているというのにな」
淡く燃える金の髪が柔らかく揺れる。首を傾げ承太郎を仰ぎ見て、DIOは笑った。
「……らしくねー顔するんじゃあねぇよ、馬鹿」
「ん?ああ――わたしがこんな顔をしようもなら、貴様は余計に心配で心配でたまらなくなってしまうものな」
くすくすと揺れるDIOの頭を軽く小突き、承太郎は羊羹を齧る。甘い和菓子ととろけるようなDIOへの情が喉元で混ざり合い、酷い、酷い胸やけがした。
「承太郎」
「ああ、なんだ」
「貴様は一体、わたしをどうしたがっているというのだ」
目尻は下がり、赤い瞳は彷徨うように頼りなく、ふらふらと揺れている。吊り上った口の端に、しかし意地の悪い邪気はない。承太郎曰くの「らしくない顔」へとその美貌を歪めたDIOは、力のない視線でそれでもじっと、承太郎を試している。
コオロギが鳴いている。風鈴が鳴っている。吹き抜ける夏風に、広葉樹の葉がさあさあと揺れている。感覚器官を刺激する夏の情景は、しかし何もかもが遠い。
「――、」
落ちた星の如きDIOが、その肌の生白さを視認できる程近くで息をしているからだ。全ての意識を独占せんがばかりの強烈な存在感で以て、承太郎の世界を支配しに掛かってくるからだ。
見開いた緑色の双眸で、承太郎はDIOを見た。じっとじっと、頼りなくも美しい、DIOを見た。
「俺は」
そうして苦虫を噛むような表情へと顔を歪め、DIOを置き去りにふいと月を見上げたのは、5秒ばかり見つめ合ったのちのことである。
「お前がろくでもねーことも企まず、人を誑かしたりなんかもせず、大人しく暮らしていれば、それで――それだけでな」
「それは、このDIOにこれまでの生き方を捨てろということだ。わたしがわたしであることをやめろということだ」
「そうだな。結局俺は、そういうことを望んじまってるのかもしれん」
「何様のつもりだ、承太郎」
「それが、お前が俺に競り負けた結果なんだぜ、DIO」
承太郎が横目で盗み見たDIOは、とっくに承太郎を見てはいなかった。月が輝き星の散らばる夏の空を、冷めた目で見上げている。こっちを見ろ、と呼びかける勇気はなかった。そもそも先に目を逸らしたのは、承太郎だ。
「承太郎」
「次はなんだ」
「わたしは、お前が嫌いだ」
「ああ――そうかい」
言葉以外の感情が、その一言には込められているような気がした。しかし上手く形容することができず、承太郎は俯いた。
俺は別に、嫌いじゃあない。
言えなかった。毒のような甘味に、すっかり喉が爛れている。


8/29 さっきの貴様とのやり取りだが思い出したら腹が立ってきたのでここでぶちまけることにする。
貴様はわたしが貴様に競り負けただとか断言したものだったが、あんなのは一回きりなのだからな!まぐれだまぐれ!貴様が急に俺が時を止めただとか訳の分からんことを言い出したものだから、ちょっぴり驚いてしまっただけなのだ!貴様はその隙を突いただけである!だから次にやったらわたしが勝つぞ!必ず!必ずな!思いあがるなよ青二才め!
わたしは貴様が嫌いだ。わたしはわたしのままでいいのに、100年も経って今更、変わりたいなどとはちっとも思っちゃいないのに、貴様はわたしの在り方を揺るがしに掛かってくる
わたしは本当は、羊羹も、アイスも、あんなちゃちな菓子に興味はなかったのだ。しかしこの家に来る前、研究所の片隅に追いやられていた時だとか、この家に来てすぐの時だとか、貴様はわたしの機嫌を取るためか、或いは続かん間を持たせる為かに、わたしにせっせと菓子を与え続けた。そりゃあ美味いとも思うだろう!思ってしまうだろう!ろくに血液も与えられん生活を強いられていたのだから、わたしは飢えていた!
飢えた胃に放り込まれた味というものは、強烈な思い出となってしまう。そのせいでわたしの好物は、血と羊羹とアイスになってしまった。つまらない変化だが、変化は変化なのだぞ承太郎!貴様がわたしを、変えてしまったのだ!腹の立つ!何様だ!腹が立ったから棚のまんじゅうを全部食べてやった!ざまあみろ!
大体にして、近頃の貴様は何なのだ!心配だなんだと気色の悪い!そんなにわたしのことが気になって仕方がないのなら、何故力ずくでわたしを引き留めようとしないのだ!わたしを奪い取ろうとしないのだ!そんな甲斐性もないくせに心配だ心配だと、女々しい、女々しい男め、反吐が出る!
貴様とくれば、寝転がるわたしを荷物をどけるように何度も爪先で蹴りつけたものだったし、わたしがあとで食べる為に取って置いたアイスを横から掠め取っていったものだったし(覚えているだけで3度だ!3度!)何度もぱしぱしと団扇でわたしの顔を叩けば冷えた缶を頬に押し付けてきたりなんかもして、なんというか、貴様はちっともこのDIOに優しくなかった!大嫌いだ!大嫌いだ!
何が嫌だって、貴様のそうしたわたしへのぞんざいな扱いを、心のどこかでは居心地がいいのだと、これはこれで楽しいのだと思ってしまっている自分がいることだ。
貴様に心配されるのをそう悪くはないと思ってしまってもいることだ。
大嫌いだ。わたしを変えようとするな。わたしを揺るがしてくれるな。わたしをわたしでいさせてくれ。死ね。承太郎の阿呆。死んでしまえ。

書き殴ったら少々すっきりしたので今日はもう寝る。
水まんじゅうおいしかった。
冷凍庫の奥の方に、アイスを隠してある。食べていい。一本だけだぞ。











ちょっと言い過ぎた。


「――……、」


8/30 どこにも行くな

8月30日の、真夜中である。DIOに宛がわれた部屋と廊下を隔てる襖の前に立ち、承太郎はすうと深く、息を吸った。
丁度、1時間ほど昔。DIOから日記を受け取った承太郎は、丸々1ページと少しを使って記されたDIOの怒り、或いは愚痴、或いは葛藤、或いはぎこちない献身へ、何度も何度も目を走らせた。そして衝動のままにボールペンを引っ張り出し、ただ一言『どこへも行くな』、それだけを書き殴ったのだった。
本来なら、翌日の夕方辺りにDIOへと回す日記である。しかし居ても立ってもいられなかった。DIOの日記によって引きずられてしまった激情、それらの全てをありったけに込めたその一文を、この晩のうちに読んで欲しかった。
襖に手をかけ、承太郎はDIOの部屋へと足を踏み入れる。庭へと続くガラス戸から差し込む月光が、暗い部屋を青白く照らしていた。
その中心にDIOはいた。乱れた布団の上で、昏々と眠っている。
「――DIO」
枕元にしゃがみ込んだ承太郎は、衝動的に、DIOの髪へと手を伸ばす。柔らかな金髪を梳く指先は、ただただひたすらに優しかった。
DIOが起きている時間は、日に日に短くなっている。この数日は夕方から日付が変わる前の数時間だけをごろごろと縁側で過ごし、本来の活動時間である真夜中にはすっかり熟睡してしまう日々を過ごしていた。
然るべき処置を然るべき場所で受けて、時間をかけて体を休めればいずれ回復するだろう、とはDIOの弁だ。強がりなどではないことを、承太郎は知っている。吸血鬼の生命力を、誰よりも間近で体験したのは承太郎だ。そしてくたくたとなったDIOを、誰よりも傍で見続けてきたのも承太郎である。だから、行くな、とは言えなかった。然るべき場所。DIOを生かす設備の整った研究機関。DIOの身を案じればこそ、そこへ送り出すという選択しか承太郎にはなかったのだ。
しかし、
(どこにも行くなよ、お前)
それもまた、承太郎の本心なのである。
しばらくDIOの髪を梳いたのちに、承太郎は手にした日記を畳の上に置く。そうして10秒ばかりの逡巡の後に、DIOの口元へと自らのそれを寄せる。しかし、キスをするには至らなかった。
下手に触れようものならば、なにがなんでもDIOを手放したくなくなるに決まっている。
承太郎は立ち上がる。月光の差す戸口と眠りこけるDIOに背中を向け、振り返ることなく部屋を去る。
(あれを読んだお前が、仕方のない男だなだとか、そういうことを言ってくれるなら、俺は、俺は――お前を連れて、)
ぱたり、と音を立て、襖は隙間なく閉じられた。


「遅い帰りだな、承太郎」
「……なんだお前、その格好」
「ジョセフのくそじじいがな。外に出るのだから、それなりの格好をしろと煩いのだ。だからわたしはちゃんと余所行き用の格好をしてやったというのに、なんじゃそれはイメクラかとか、下品も下品なことを言いやがる。そこでまあ、奴が寄越してきた服が、この面白味もくそもない地味なスーツだったというわけだ」
8月最後の日。昨晩のあれこれが気恥ずかしく、少々いつもより遅い時間に帰宅した承太郎を待ち受けていたのは、寸分の乱れもなくスーツを身に纏ったDIOだった。縁側から降りて庭に立ち、ぼうっと星空を見上げている。
「お前、」
それはそれでイメクラのように見えるだとか、体は大丈夫なのかとか、今日はこの前の水まんじゅうを買ってきてやったのだとか、言いたいことは沢山あった。ただひりつくような焦燥感が、それら全てを押し退けて承太郎の内心を占領する。
一歩、二歩と前へ進むたび、承太郎の手元ではビニール袋ががさがさと音を立てた。DIOは赤い唇に美しい弧を描かせながら、悠然と月光を浴びている。
「明日だろう、出発は」
「1日前倒しになったらしい」
「聞いてない」
「わたしだって、起き抜けに聞いたばかりだ」
承太郎へと爪先を向けたDIOは、しかし承太郎の前で立ち止まることはなく、ひらりと隣をすり抜けてゆく。さあさあと吹き抜ける夏風のように。
「今日は何やらばたばたとしていて、縁側で寛ぐ余裕もなかった。だからまだ昨日の日記を読めていないのだが、貴様はどういうことを書いたのだ?口頭でいい、このDIOに、伝えてみよ」
「読めよ。たった一文だけだ」
「そんな時間はない。一応貴様に顔を見せてから出発しようかと、少々無理を押してここで待っていたのだぞ。なのに今日に限って、帰りが遅かった。そんなに海というものは、海岸線に沈む夕日というものは、貴様の心を掴んで離さんものであるというのか、承太郎よ」
「ああ――いっぺん見てみりゃ、分かるはずだ」
「無茶を言うな」
振り返ったDIOは、泣くように笑った。承太郎の目には、そう見えた。そうであってほしいのだと、望んだだけであったのかもしれない。
「承太郎」
険のとれたDIOの声。その響きの柔らかさ、心地よさに、どうしようもなく込み上げてくるものがあった。歪む承太郎の視界の中で、月光を浴びたDIOは、殊更美しく笑っている。
「そう心配するなよ、承太郎。生きていこうと思えばな、どこでも生きてゆけるのだ。わたしは、惰弱な人間とは違うのだから」
「DIO、おい」
「今に見ていろ承太郎。わたしは必ず返り咲き、天国をこの手に収めてみせるぞ。ただそれは、貴様がこの世を去った後の話だ。またこの身を叩き割られては敵わんからな。だから大人しくしているさ。貴様が心配することなど何もない。何ひとつたりともな」
「待てよ、お前」
承太郎が足元の草を踏むと同時に、金の髪が、広い背中が翻る。見たことのない格好をしたDIOはまるで知らない別人のようで、自分がよく知る本当のDIOは、今も狭い和室で眠っているのでは、居間で水羊羹だのアイスだの貪っているのでは、と承太郎は思う。
しかし現実は揺るがない。生温い夏の空気に額には汗が滲み、向かい風に冷やされては背筋を寒気が駆け抜ける。生々しい現実だけが、今ここに存在をしているのだ。

「精々早死にをしてくれよ、このDIOの為にな。もう会うこともないだろう。それじゃあな、承太郎、承太郎よ」

夏の空気に融けるように、DIOが承太郎の視界から姿を消す。そうして、承太郎がひとりである。風は止み、風鈴は鳴りやみ、ただコオロギだけが泣き喚き、秋の到来を告げている。

――俺の夏は、終わってしまったのだ。

行き場のない感傷を胸に、承太郎は無人の縁側に座り込む。
ひとり空を見ながら齧った水まんじゅうは、悲しい程に、甘かった。





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