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一期一会予定の人

街外れの橋の欄干に、男が1人干されていた。何を言っているのだと思われているかもしれないが、とにかくそうとしか表現できない光景が、このぼくの目前で繰り広げられているのだった。
「……うわぁ」
引っくり返った足の裏が、ぼんやり空を見上げている。膝はアスファルトに沿うように中途半端に曲がっていて、長い脚を持て余している雰囲気がなにやらやたらと間抜けである。
一瞬『これは死体であるのだろうか』と思いもしたものではあるが、5秒に1度のペースで据わりの良い姿勢を探すようにじりじりと身じろいでいる所を見るに、これは生きた人間であるらしい。恐らく、繁華街から流れてきた酔っ払いであるのだろう。そうした輩に遭遇したっておかしくはない時間帯だ。
「……んー……んむぅー……うー……」
街並みからは遠く、ろくな街灯も立っていない、おまけに月も見えない曇りの夜に遭遇するには少々――どころか、大層気味の悪い光景だ。その男が途切れ途切れに発している、地獄の窯の隙間から漏れ出たような呻き声がまた、ホラーな雰囲気を助長させている。
ぼうっとその男を数分眺め、少々悩んだ末に、ぼくは男の臀部と並ぶように欄干へと背中を預けた。ちら、と斜め後ろに目をやってみれば、男の両腕と髪が今から川へ飛び込まんと言わんばかりにだらりと重力の方向に垂れている。顔は、見えなかった。あまりにも暗いので、髪の色すら判別がつかない。
「水とか要ります?」
曇りの空を見上げながら声を掛ける。返事を期待してはいなかった。しかし橋に干された男はぱたぱたと長い脚をはためかせながら、
「いーらーぬぅー」
と。怠惰に間延びした声で、確かな返答を寄越してきたのだった。
「ぼくはまだほんの16年ほどしか生きていない若輩者だから、よく分からないんですけどね。そんなにいいものなんですか、アルコールって」
「わたしは酒など飲んではいないー」
「ん、酔っ払いじゃあないんですか?あれ、もしかして具合が悪い人?」
「血に酔った」
「はあ?」
「こう、手当たり次第にな、老若男女、人種の区別もなく吸い歩いていたのだ。30人を超した辺りでこの橋へと辿り着き、ああクソ暗い夜であるものだな、浅い川の底も見えん、と身を乗り出して下を覗きこんでいたと思ったら――いつのまにか、このようなことに」
「はぁ。つまり酔っ払いなんですね、あなた」
「むぅ、確かにわたしは酔っ払いであるが――なんだろう、貴様わたしを、アルコールなぞにやられた軟弱者だと思っているのではないか」
「そうなんでしょうに」
「違う。わたしは、吸血鬼なのだ。人間の血を吸いに吸って、こんにちまでの百数十年を生きてきたビンテージ吸血鬼であるのだぞー」
「はいはい」
酔っ払いの戯言である。適当に流してやれば、男はすらりと長い脚をばたつかせ、地団太を踏む子供のようにコンクリートを蹴りつけた。しかし男が小さな大暴れをしていたのもほんの数秒だけの出来事で、瞬きを3度ほどした頃には再び、死体の如くの有り様に戻ってしまっている。
「どうでもいいですけど、起きないんですか、あなた。いい加減苦しくはなりませんか」
「いい。たまには重力に身を委ねてみるのも悪くはない」
「だいぶ間抜けですよ、その格好」
「誰が見ているわけでもない。今夜は月さえ、出てはいない」
「ぼくが見てます」
「一期一会の他人に何を見られたところでな」
だらり、と欄干に引っ掛かった体は濡れタオルのように重たげであるにも関わらず、男がくすくすと漏らした笑い声はどこまでも軽やかだ。一期一会。一期、一会!その言葉に込められた果てしない解放感を、大いに助長させるように。
ぼくは喉が反る程に上を見上げ、重い雲の立ち込める空へと笑いかけた。愉快だ、というのとはまた違う。ふわふわと浮ついた感情に上手く名前を付けることはできないが、既存の言葉に当て嵌めるならば『安らいでいる』というのが今のぼくの心境であるのだろう。一期一会の男、だらしのない酔っ払いとの邂逅に。
「ぼくは、そうはなりませんよ。アルコールにやられて無様を晒すような、みっともない大人にはなりません」
「そんなことを言っていられるのも今の内であるのだぞ。わたしにだって、酒など一生呑まぬ、酒飲みなどはことごとくがクソだ、と嘯いていた時期があった。ええとなんだ、16年しか生きていないと言っていたな、貴様?わたしも丁度、そのような年齢だった頃のことだ」
男の声は酷くくぐもっていたが、月のない夜は怖気が走る程に静かなのである。しかも繁華街から遠く離れた郊外はとくれば、足音さえもしつこく残響するような、やりすぎだってくらいの静寂に包まれているのだった。なので、男の声はよく聞こえる。下手をすると、息遣いの音すらも生々しく、このぼくの鼓膜を打ちつける。
「強烈な反面教師がいたのでな。酒だけは飲むまい、溺れまいと、心に決めていた。そうするくらいなら死んだ方がましだと思っていた。そんなわたしにだって、20歳を越した頃には酒に溺れることもあった。とてつもない自己嫌悪と共に、酒を呷り喰らったのだ。そういうものであるのだぞ、小僧。小僧が小僧なりに心に定めたことなどは、時を重ねればみすぼらしいぼろきれと成り果てる。そういうものだ、そういうもの、ふふふ、ふ、ふ」
「反面教師ですか。今のぼくにとっちゃあ、あなたこそがそうであるのですが。どんなだったんです、あなたのそれは」
「呼吸をするだけで半径10メートルを腐らせてしまうような男。つまりは大変なクソ野郎である」
訳の分からない妄言を吐き散らしてみれば、つらつらと過去を語ってみたりもする。この男はやはり、どうしようもない酔っ払いであるわけなのだが、くすくすからけらけらへと変わった軽やかな笑い声は、妙に好感の抱けるものだった。ぼくはなんとなく、まだこの男と話していたいと思ったので、口が動くに任せるがまま適当な話題を放り投げる。
「で、あなた、どうしてそんな深酒を」
「深吸血!」
「……深吸血を。おかしな言葉だな」
「興味があるのか、このわたしに」
「そうですね、今後の参考に。あなただって、どうにも、自分のことを語りたがっている。付き合いますよ。夜はまだまだ長いんだ」
「暇な小僧だな」
喉を低く鳴らすように、男は笑った。
「もう、10年と少しになるのだろうか。いつどこで会うと約束したことはなかったし、気付けば数年顔を見ていなかったということもざらであるのだが、それでも不思議とふとした瞬間に会いたくなって、酒を酌み交わしながらつまらない言い合いをするような付き合いをしている男が1人、いる。そいつと、まあなんだ、つまらない、という一言で切り捨てるには、いささか許し難い諍いを起こしてしまったのだな」
淡々と語り出した男の声は、冬の夜のように乾燥していて、どこか寂し気であるようにも聞こえる。ぼくは爪の先で欄干を引っ掻きながら、男の声に耳を傾けた。

「口喧嘩などは数えきれないほどしてきたし、それどころかわたしは、あの男のせいであの世へ行きかかったこともある。それでもあの男と会い続けてきたということは、結局のところわたしはあれを許してしまっているのだろう。いいや、そう言い切ってしまうのは何やら悔しいな、ええと、そうだな、そう――妥協を、しているのだな、このわたしは。今更命を奪い合うよりも、時たま顔を合わせる程度の希薄な縁を続けてゆくことの方が、心地よいと思ってしまっている。なので、妥協をな、うむ。
しかし今回ばかりは、許せないと思ってしまった。許してなるものかと思ったのだ。結局あの男というものは、誰よりもわたしを理解しているのだという面をして、わたしのことなどなにも分かっちゃいなかった。でなければあんなにも、わたしを舐め腐った台詞を吐けるわけがあるものか。昔にもあったのだ、そういうことが一度だけ。あの時だって、わたしは、言ったのに、もうこんなことだけは、わたしをわたしでいられなくさせるようなことだけはしてくれるなと言ったのに、それでも許してやったこのわたしを、学習能力のない愚かなあの男は裏切った。許せるものか。許してなるものか。何も分かっちゃいない、あの男は、あの男」

乾いた声が湿り気を帯びてゆく。最終的には、重苦しい情念でびしょ濡れだ。なんとなく、この男は酒になど酔っていなくてもここから動けやしないのだろうな、と思った。重くなった体を引きずって歩くには、夜の繁華街はあまりにもきらびやかが過ぎる。ならば人気もない、月の明かりすら差しやしないこの橋に干され、じっと心が渇いてゆくのを待つことこそが、賢い選択であるのかもしれない。
「理解を。されたかったのですね、あなたは」
男は答えない。たっぷりにの沈黙ののちに、伸びた爪先で不満気にアスファルトを蹴った。
「中途半端な理解で『わたし』を荒らされてゆくことが、許せないのだ」
そして再びの沈黙である。さあさあと水が流れて行く音、男の苦しげな、喘ぐような呼吸に、ぼくの心臓の等間隔な可動音。たったそれだけが存在する世界の居心地の良さに、ぼくは40℃まで沸かした風呂に浸かるような心持ちで、身を任せた。
「おい、小僧」
「なんですか」
「貴様も貴様で、なにやら居ても立っても居られない理由があるが故に、この月のない夜を彷徨っているのだろう」
「興味がありますか、このぼくに」
「話したいのだろう?聞いてやろう、このわたしが」
「暇な酔っ払いですね」
笑った拍子に口元から漏れた息が、白い靄となって大気中に融けてゆく。春の夜は、未だ寒い。
「まあ、ぼくはですね。あなたのように許せないものがあるわけではないのです。ただ、なんというのかな。ほんの、少しだけ――すこぅしだけ、ですね、ちょっとばかり昔、ただの学生だった頃のように『ぼくだけのぼく』へ、戻ってみたいものだなぁと。そう、思ったわけですよ」
見上げた空は遠くまでどんよりと重い。ぼくが衝動的に執務室から脱出した1時間ほど昔からずっと、変わらずに重っ苦しい。まるで、ぼくの心の淀が空にぶちまけられているかのようだ。

「なにがあったというわけではありません。現状に不満があるわけでも、自分で選んできた道に後悔をしているわけでもない。ただ、それでも無性に息苦しさを感じてならなくなる瞬間というものは、ぼくの若さそのものであるのでしょうね。なので、山積みになった仕事を放り捨てて部屋を飛び出しました。ドアの前には人がいるから、窓を開けて飛び降りました。そして、1人です。誰もぼくを見ていないし、誰もぼくの顔を知らない。そういう夜を、歩いていた。そうするうちに、この橋に干されたあなたと出会った。それだけの、話です」

欄干に預けた背中には、如何ともしがたい疲労感がへばりついて離れない。そいつを自覚したのは最近も最近のことだ。ようやく叶った夢の日々には、疲れたと思う暇もなかったのだ。新生活に慣れてきた昨今になって目の下に隈を作り出したぼくを、ミスタはお前も案外健全だな、と笑ったものである。しかし理想のぼくはといえば、つまらない疲労に躓くことなくばりばりとギャングスターをやれていた筈で、この理想と現実の乖離がまた、ぼくを煩悶させてならないのだ。
現実が、重い、重い、水を吸った衣服のように。
だからぼくは、まったくぼくの現実と重ならないこの男との関わりが酷く気楽で、なにも気負う必要もなくて、安らぐのだと、居心地がいいのだと感じているのかもしれない。酔い潰れて橋に干されるような間抜けな男に比べれば、自分がちょっとばかり上等な人間であるような、いささか感じの悪い優越感も抱いている。男の声の耳触りの良さだとか、情けない酔っ払いであるはずの男が醸し出す、不思議な安心感だとか――そういうものに好感を感じてもいるのだが、なんだか我ながら取ってつけたような理由だ。ふっと笑ってみれば、再び白い息が漏れた。
「中々に普遍的な青春ではないか、小僧。どれだけ大人の真似ごとをしてみたところで、16歳は16歳。健全な子供であることから逃れられやしないのだな」
分かったようなことを大人ぶって嘯く男の声は、歌うように弾んでいた。やはり、酔っ払いである。情緒の変動が激しいのだ。さっきまでは、未練がましく『あの男、あの男』と繰り返していたくせに。

返事をするのが億劫になって、ぼくは少々、黙ってみる。しかし男は、ぼくのそうしたちょっとばかり繊細な感情の機微を察するでもなく、未だ弾むその声で、軽やかに沈黙を切り裂いた。
「寂しいのだな、お前は」
橋に干されたままの男は、ぼくの顔を見ることもなくぼくを語る。縁もゆかりもない男との気楽な一夜に、少しばかり居心地悪さの影が差す。
「腹の底にこびりついた拭いきれない寂しさの為に、貴様は不自然なまでに大人びた子供になってしまっている。子供でいることがそんなに煩わしいか、少年?何かと楽だぞ、子供の方が」
中途半端な理解で『ぼく』を荒らしてくれるな。
思わず競り上がってきた激情を飲み込んで、ぼくは靴の先で男のふくらはぎを小突いた。
「あなたにぼくの、何が分かるというのです」
「わたしに似ているような気がする」
「ぼくが?あなたに?」
「そう言っているつもりだが」
「寂しいのですか、あなたは」
「ふふ、どうだろうな」
寂しい、という感情は、ぼくにとってはどうにも触れてはいけない、理解しようとしてはいけない領域にあるものであるように思うのだ。だって自分の中にそれがあることを認めてしまおうものならば、ぼくは、この腹の底で確かに疼いている飢えというものを無視することができなくなってしまう。自分が満たされない子供でいたことから、目を背けられなくなってしまう。
『両親に愛された子供ではなかった』。ぼくの中に寂しさがあるというのなら、根源であるのはたったそれだけの、つまらない事実であるのだろう。今更何がどうなるわけでもない。ぼくはぼくとしての生き方を見つけたし、そこに両親などは、彼らが与えてくれるはずだった愛というものは、全く必要なものではない。
それでも――よく晴れた休日に、親が2人、その間で幸せそうに笑う子供が1人。まるで絵に描いたような『家族』の光景が目に飛び込んできた時などは、ああ、ぼくはああいう幸せを知らずのままに大人となってしまうのだなぁと、髪の先がちりちりと焦げるような物寂しさを覚えたものだ。ぼくを見てくれる母親と、写真から飛び出してきてくれた父親。彼らと手を繋ぎ、晴れた空の下を歩く小さなぼくをぼんやりと夢想しては、なにを無駄なことをと自嘲した。今はもう、母がどこに住んでいるのかも知りやしない。父などは、未だ写真越しにしか会ったことがない。
「少年、少年よ」
男の発する柔らかな声が、ぼくの項を撫で上げた。
「なにを躊躇うことがある?1は1で貴様は貴様。今更何を吐き出そうが、今日までの日々で確立された自我というものが崩壊するはずもない。それほどまでに薄い、ぺらぺらの自我であるというのなら話は別であるのだがな」
「なにやら、いやに唆しますね」
「ふふふ、クソ生意気に大人ぶったガキの仮面を引っぺがしてやろうと思ってな。どうせわたしは、今宵だけは暇な酔っ払いだ」
「うわぁ、余計に何も言いたくなくなりました」
ぐっと欄干に寄りかかり、胸を反らせて空を見る。何度見たって空模様は変わらない。インクで塗り潰したような空には月はおろか星すらも姿はなく、じっと見つめているとまるで深い海の底に追い落とされたかのような、心細い気分にもなってくる。
きっと、寂しさとはそうした感情の集まりなのだ。えも言われぬ不安の集合体。1人、1人でいること。この世界を1人きりで渡ってゆく苦しいのだと、1人では生きて行けぬのだと。

「このわたしが、小僧の小僧なりの惰弱を受け止めてやろうと言っているのだぞ。寂しがりの、少年よ」

衣擦れの音がする。視界の外で、男が足をばたつかせているのだろう。
「――、」
そんな男の様子を伺うように俯くと、少しばかり喉が詰まる。溢れる言葉が、喉仏の辺りでせき止められている。ぼくは、横を向いて男を見た。欄干に引っ掛かりっぱなしの、間抜けな臀部を見た。それを見計らったように、
「少年、よー」
男は間延びした、ぼくをからかうかのような声色で。けれど優しく、ぼくが『ぼく』を曝け出すことを、許してくれたのだった。少なくともぼくは、そう感じたのだ。

「ぼくは――ずっと、寂しかったのですね。ぼくがそういう人間であることを、誰かに知っていて欲しかったのですね。そうではないぼくを、全く知りはしない人に。知ってもらったところで、ギャングスターとしてのぼくの『現実』を揺るがすことのない人に。――あなたのような、一期一会の旅人に」

なので、喋った。言葉にならない靄として、腹の底に抱えてきた寂寥感。ずっと目を背け続けてきたそれを、我ながらたどたどしく吐き出した。その瞬間に、ぶわりと雲が晴れたかのような解放感がぼくの全身を駆け抜ける。現実の空はまだ、曇ったままだ。
「わたしは貴様がそういう人間であることを、今ここで知った。夜が明ける頃には、きっと忘れているのだろうが」
「それでいいのです、それで」
もう空を見上げるのにも飽きてきた。ぼくは体を反転させ、両肘をついて欄干に寄りかかる。ちょっと下に目を落としてみれば、水の流れる音だけが響き渡る底なしの川、それから柳の枝の如く垂れ下がった男の上半身。現実からかい離した光景が、なんだかとてもおかしかった。
「それにしても、ギャング!ギャングだと、貴様のような子供が?なんだ、貴様も立派な酔っ払いなのではないか」
「違います、ぼくは、正真正銘のギャングスターなのです!あなたのような自称吸血鬼とは違うのですよ」
「わたしだって、正真正銘の吸血鬼であるのだぞ!」
じゃれるように言い合う内に、どんどん声量は増してゆく。最終的にはつまらない詰り文句で相手を責め合うことも放棄して、ぼくと男は無意味にけらけらと笑い合った。ぼくと、自称吸血鬼の酔っ払いだけ。ぼくらだけが、この月のない夜で息をしている!
「で――あなた、いつまでそうして干されているつもりですか」
「ん?ふふ、うぅむ、なにやら今更起き上がるのも、面倒くさくなってきたのでなぁ」
ひとしきりの愉快を吐き出したのちに、はあはあと息を整えながら、ぼくは男の頭を覗きこんだ。男は顔を上げる素振りはなく、ぼくから見えるのはせいぜいつむじくらいなものである。
顔を見たいような、このまま見ずに別れてしまいたいような、どっちつかずに心境だ。もっとこの愉快な酔っ払いを知りたい、差し当たってはどんな顔をしているのかということを。そうと思いはするものの、このまま顔も知らないレベルの一期一会の仲でいたいような気もしている。
そうこうしている内に、男が不意に身じろいだ。欄干に両掌を突っ張り出したところを見る辺り、どうやら起きあがろうとしているらしい。ぼくは咄嗟に首を反らし、あさっての方向に目をやった。
「こういう時は――あれだな、小僧。セックスだ、セックスするぞ」
「……よく聞こえなかったんですけど。なんですって?」
「セックス!!」
「そんなでかい声で言えとは言っていない!!」
突飛も突飛な男の提案に、思わずぼくは振り向いた。しかしそこには――欄干に干された男はおろか、そこから起き上がったはずの男の姿も見えやしない。深い深い暗闇だけが、どこまでも遠くまで続いている。
――ぼくは、夢でも見ていたのだろうか?
なんとはなしに、橋の下を覗きこんでみようと思い立って、欄干へ向かって手を伸ばした。すると、その瞬間である。指先がもう少しで冷たい石造りに辿り着こうかという所で、何者かがぐい、とぼくの伸びかけた腕を引っ張ったのだ。
「!!?」
強烈な力に引かれるがまま、体が180度反転する。そしてそのまま、馬鹿力の発生源は強引にぼくを引っ張りながら歩き出した。鈍い痛みすら発する手首に目をやれば、生白い手の甲がぼんやりと暗闇の中に浮かび上がっている。
「じ、自称吸血鬼!あなたですか!」
「自称ではないと言っているだろうに」
「そ、そんなことはどうでもいいッ!あなた、一体いつの間に」
「ふふふん、貴様は何を言っても信じようとせんからな。秘密だ、秘密」
男は広い背をこちらにむけて、ずいずいとどこかへと進んでゆく。思っていたよりも、ずっと大きな男だった。体格もいい。コートの裾をたなびかせながら大股で歩いてゆく姿が、夜目にも分かるほど様になっている。
「お酒の次は、セックスですか!どこまで堕落するつもりなんだ!」
「そうしたものだ、大人というものは。どうだ、なりたくはなかろう?子供のままでいたいだろう?」
「ええもう、まったく!」
それでもぼくは、男の手を振り払うことができなかった。この先行われる行為を期待してのことではない――ああいいやなんだ、ちょっとばかり期待をしている感もないのではないのだが――それ以上に、がっちりとぼくの手首を掴んだ男の、真っ白な掌の。その表面、滑らかな皮膚に宿った仄かな体温が、なんだかとても、とても心地がよくて、手放すにはあまりにも惜しいと感じてしまっているからだ。
寂しいと認めるやいなやこれである。貪欲に、他人の体温を求めてしまっている。
自重を零している間に、迷いなく闇夜を進む男は建物と建物の間、さっきまでいた橋に輪をかけて人気が失せた暗い場所へと、このぼくを引きずり込む。そうして性急に、ぼくの背を堅い壁へと押し付けるのだ。
「――……、」
押し当てられた唇は柔らかかった。そしてぼくの視界を奪うべく、目蓋の上にぺたりと押し付けられた男の掌はやはり、仄かに暖かい。
「――名前はいらない。顔もいらない。わたしと貴様は、ただこの瞬間にまみえただけの全くの他人でいい。そういう人間と、寝てみたい。この月のない夜にしかできないことだ」
至近距離で、男が囁く。ぼくは白い掌の下できつく目を瞑りながら、か細いその声の一音たりとも聞き逃してはなるものかと、聴覚を研ぎ澄ませた。

「少年、少年よ。わたしと共に、つまらない背徳に溺れてしまおう。一期一会、寂しがりの、少年よ」

――結局のところ、あなただって寂しがっているのではないのか。
切実な声がむやみやたらに愛しくて、ぼくは広い背を抱き締めた。目を閉ざしたままに、ぼくは男とした経験がない、と告白をしてみれば、男は浮ついた笑い声と共に『天国を見せてやる』と嘯いた。やたらに、得意げな声である。





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